日光市

栃木県日光市は栃木県北西部に位置します。栃木県全体の4分の1を占め全国の市町村で3番目に広い市です。日光国立公園が広がる自然豊かな土地で、歴史的文化的遺産や温泉などがあり、観光地として世界でも有名な都市です。
概要
- 面積
- 1,449.83km2
- 人口
- 75,330人(2022年)
- 市の木
- もみじ・シラカンバ
- 市の花
- ニッコウキスゲ・ヤシオツツジ
- 市の鳥
- カワセミ・ウグイス
- 市の魚
- ヒメマス・イワナ
- 市民の日
- 3月20日
- 地図
特集
歴史
日光は日光男体山の古称である二荒山をニコウと呼び日光の文字を充てたとされています。日光が歴史に現れるのは勝道上人が日光山を開山したことに始まります。江戸時代に慈眼大師天海が輪王寺の住職となり、徳川家康の霊廟を建てたことで参拝者で賑わうようになりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
日光市は縄文時代や弥生時代の遺跡が16か所発見されています。日光の山が連なる高地であることから、基本的に狩猟の場として使われ、男体山の中腹からは石の鏃が発見されています。湯西川地区にある縄文時代中期の仲内遺跡では、23件の竪穴式住居跡と多数の貯蔵穴が発見されました。東北地方南部の影響を受けた独特な囲炉裏や土器が見つかりました。

華厳瀑
日光には四十八滝といわれるくらい滝が多いことで知られます。最も有名なのが高さ97メートルの大瀑布・華厳滝で、日本三大名瀑のひとつに数えられています。

中宮祠湖(中禅寺湖)湖畔
中禅寺湖は男体山の噴火による溶岩で渓谷がせき止められて原型ができたと言われ、水面の海抜は1269メートルある日本屈指の高さの湖です。
古墳時代、飛鳥時代
山間部の日光では大きな集落は造られず、古墳は築かれませんでした。
奈良時代、平安時代
天平神護2年(766年)に勝道上人が日光を開山して、延暦元年(782年)に輪王寺の前身である四本龍寺を建てました。神護景雲元年(767年)に勝道上人は大谷川の北岸に二荒山大神を祀り、日光は山岳信仰の聖地として崇拝されるようになりました。元暦2年(1185年)に平家が滅亡すると、平家一門は散り散りに各地に逃げ延びました。平貞能は妙雲禅尼と平資盛とともに湯西川に落ち延びたとの伝説が残ります。
平家落人伝説
平重盛の重臣・平貞能は平家滅亡後に宇都宮朝綱を頼り、宇都宮朝綱の助命嘆願により源頼朝から許されました。平貞能は平重盛の妹・妙雲禅尼を助け、平重盛の子である平資盛と平忠房を伴い宇都宮に落ち延びました。源氏の平家討伐は厳しく続いたため、平忠房の子は那須塩原、妙雲禅尼と平資盛の子は湯西川に分かれて落ち延びました。

日光山輪王寺(三仏堂)
天保2年(1645年)に徳川家光が建てた東日本最大級の木造の建物で、堂内には日光三社権現の本地仏である千手観世音菩薩、阿弥陀如来、馬頭観世音菩薩が祀られています。

二荒山神社の拝殿
元和5年(1619年)に2代将軍・徳川秀忠が建て直した建築物で、正保2年(1645年)に本殿の移転に伴い再建されました。

平家の里
湯西川では人の生活の形跡を残さないため、焚火をしてはならず、鯉のぼりを上げず、犬や鶏は飼わないなどの風習があり、苗字は平家を意味する伴を称していました。
鎌倉時代、南北朝時代
治承元年(1177年)に座主を巡る争いが起こり日光山が荒れましたが、承元4年(1210年)に弁覚が座主となり復興しました。鎌倉将軍家は日光山に対して篤く信仰して影響力を強め、南北朝時代に日光山は天皇家の南朝方に与しました。
室町時代、安土桃山時代
天正18年(1590年)に豊臣秀吉は小田原北条氏への加担を理由に日光山の所領を没収しました。

湯西川温泉郷
天正元年(1573年)に開湯したと言われますが、平家の落人が傷を癒したと伝えられます。戦後に鬼怒川温泉の奥座敷として整備が進みました。
江戸時代
慶長15年(1610年)に足尾銅山が発見されました。慶長18年(1613年)に日光山貫主に就任した慈眼大師天海は、元和3年(1617年)に初代将軍徳川家康の霊柩を日光山に遷座しました。寛永13年(1636年)に3代将軍徳川家光は日光東照宮の社殿のすべてを建て直し、日光東照宮の近くに自身の廟所が置かれました。
五十里洪水
天和3年(1683年)に天和日光地震が発生し、葛老山が崩壊して鬼怒川の支川男鹿川が堰き止められて五十里湖が形成し、上流の五十里村や西川村は湖底に沈んで集落は移転を余儀なくされました。天和3年(1683年)と宝永4年(1707年)に会津藩は掘割工事を行うも失敗し、会津藩士早川上粂之助と高木六左衛門が責任を取り切腹しました。享保3年(1718年)に五十里湖は豪雨で決壊し、下流の日光市や宇都宮市などに大きな被害を与える五十里洪水となりました。

日光東照宮(陽明門)
徳川家光が大改修した日光東照宮を代表する門で、名棟梁・甲良宗廣と天才絵師・狩野探幽が手掛けました。霊獣や花鳥、仙人賢人など500点以上の彫刻が施されています。

大猷院(本殿)
大猷院の中心となる本殿は、たくさんの金彩が使われているため金閣殿とも呼ばれます。内部には狩野探幽の描いた唐獅子、天井には140枚の龍の絵、家光が着用した鎧などがあります。

ガンマンガ淵(慈雲寺境内)
男体山の溶岩で形成された渓谷の南岸には長さ500mにわたり石仏群が残されています。対岸の岸壁にはかんまんの梵字を読み取ることができます。

鬼怒川温泉
元禄4年(1691年)に沼尾重兵衛が滝温泉を発見し、明治2年(1869年)に滝温泉の鬼怒川対岸に藤原温泉が発見されると、両方を合わせて鬼怒川温泉と呼ばれるようになりました。

川治温泉
享保3年(1718年)の五十里洪水で偶然に発見されました。鬼怒川温泉とともに名湯として知られるようになり、傷は川治、火傷は滝(鬼怒川温泉)と称されました。

龍王峡
五十里洪水で鬼怒川を一気に下りる濁流は下流70村で1万人以上の犠牲を出し、渓谷部では水が集中して高速に流下し、川底を洗い流して急斜面の岩石は大音響とともに崩壊しました。

二宮尊徳の墓
嘉永6年(1853年)に赴任した二宮尊徳は田畑や用水路などを建造し、日光神領の建て直しに心血を注ぎました。安政3年(1856年)に死去して息子の二宮尊行が引き継ぎました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治元年(1868年)に幕府軍が宇都宮から日光山へ敗走すると、幕府軍は会津軍と合流して小原沢で白兵戦となりました。新政府軍の板垣退助は日光山内に籠る幕府軍に撤退を交渉したことで、日光の町は戦火を免れました。昭和4年(1929年)に東武鉄道日光線が開通して鬼怒川温泉に大型温泉ホテルや旅館が建設されました。鬼怒川温泉は関東でも有数の温泉観光地となり、箱根と並び東京の奥座敷と呼ばれるようになりました。
足尾鉱毒事件
明治10年(1877年)に古河市兵衛により足尾銅山が民営化されると、最新の技術や設備により急速な発展を遂げて日本一の銅山に成長しました。足尾銅山は日本の近代化に大きく貢献しましたが、次第に鉱毒被害が問題視されるようになりました。栃木県出身の政治家田中正造は、明治34年(1901年)に天皇直訴事件が起こしました。

足尾銅山跡(通洞坑)
明治29年(1896年)に完成した本山坑と小滝坑が連結した基幹坑道です。開鑿にはさく岩機やダイナマイトによる発破工法が用いられるなど最新技術が導入されました。

足尾銅山跡(宇都野火薬庫跡)
坑道開鑿に使うダイナマイトなどを保管していた建物で、小滝坑の閉鎖に伴い宇都野火薬庫も廃止されました。建物内部や敷地内は非公開です。

足尾銅山跡(本山坑)
足尾銅山を代表する坑口で、明治16年(1883年)に再開発された江戸時代の坑道です。明治30年(1897年)には日本で初めて電気機関車で運搬が始まりました。

足尾銅山跡(本山動力所跡)
大正3年(1914年)に設置された本山坑で使用する鑿岩機などの動力として圧縮空気を供給する施設です。現在は2基のコンプレッサーが保管されています。

足尾銅山跡(本山製錬所跡)
明治18年(1885年)に新たに設置された製錬所で、明治26年(1893年)にベッセマー製銅法を導入して製錬作業が効率化されました。

足尾銅山跡(本山鉱山神社跡)
明治22年(1889年)に木村長七が銅山で働く坑夫や鉱夫たちと本山杉菜畑に建設した神社です。足尾銅山で働く多くの人びとの献金により社殿が建設されました。