前橋市の古墳

群馬県は全国屈指の古墳県として知られ、東日本最大の太田天神古墳をはじめ多くの古墳が残されています。かつては1万3千基以上の古墳があり、現在はおよそ2千基の古墳が残されています。東日本最大の上毛野国のなかで前橋市域に残されている古墳を纏めてみたいと思います。
上毛野氏
弥生時代に毛野と呼ばれた未開拓な肥沃な平野は、多くの渡来人が移り住み開拓を始めました。開拓した人びとは大和王権との強い結びつきがあり、第十代崇神天皇の第一皇子・豊城入彦命を祖とする毛野氏が支配しました。毛野は関東地方で栄えた東国文化の中心となり、やがて上毛野国と下毛野国に分割され、のちに上野国と下野国となります。

櫃石
5世紀後半から6世紀前半の祭祀遺跡で天津神地津神を祀る盤座でした。長径5メートル、高さ3メートルほどの巨石を中心として周囲に1~2メートルの自然石が見られます。
朝倉・広瀬古墳群
肥沃な平野が広がる毛野を開拓し国造りを始めた首長は、濃尾平野を中心に展開した狗奴国の文化である前方後方墳を営みましたが、大和王権の文化を取り入れて前方後円墳を造営するようになりました。群馬県は埴輪が多く出土する地ですが、この時期の古墳には埴輪は並べられていませんでした。

八幡山古墳
4世紀中頃以降に築造された全長130メートルある大型の前方後方墳です。前方後方墳としては全国第4位の規模で、毛野と呼ばれた肥沃な平野を開拓した首長の墓と考えられています。

前橋天神山古墳
4世紀後半に造営された全長129メートルの前方後円墳です。今では王が埋葬された粘土槨部分のみが残されています。三角縁神獣鏡を含む銅鏡5面などが出土しています。

天川二子山古墳
6世紀後半に造営された前方後円墳で、後円部に対して前方部が大きく発達した形をしています。強大な勢力を誇っていた朝倉氏の祖父あるいはその一族の有力豪族の墳墓と見なされています。
大室古墳群
大室古墳群がある地域からは旧石器時代の石器がたくさん見つかり、縄文時代の住居跡も多数発見されています。古墳時代の前半には集落を形成し、やや離れた場所に周溝墓をつくりました。6世紀頃には赤城南麓を代表する豪族の古墳が形成されました。

前二子古墳
6世紀初頭の前方後円墳で墳丘長は94メートルあります。大室古墳群で最初に造営され、石室からは土器、装身具、鏡、金メッキされた馬の飾り金具などの副葬昂が出土しました。

中二子古墳
6世紀前半の前方後円墳で、墳丘長111メートルあり大室古墳群のなかで最長です。全体に葺石が葺かれており、石室は未だ発見されていません。

後二子古墳
6世紀後半の前方後円墳で墳丘長は85メートルです。石室を地中の低く造ることで墳丘の盛土を節約しています。前庭部には儀式に使われた煮炊きの跡や土器が出土しています。

小二子古墳
6世紀後半の2段築成の前方後円墳で、墳丘長は38メートルです。後二子古墳と同時期に方向をそろえて作られていることから、後二子古墳とかかわりの深い人物の墳墓であると考えられます。
月田古墳群
月田古墳群は粕川左岸の丘陵上に存在している古墳群で、6世紀末から7世紀後葉にかけて造営されましたが、その多くが7世紀にかけて築造されたようです。

鏡手塚古墳
6世紀中期に粕川左岸の台地上に造営された前方後円墳です。後円部南側に入口をもつ片袖型の横穴式石室から人骨のほか耳環、鉄鏃、刀子などが出土しました。

壇塚古墳
月田古墳群のほぼ中央に位置する二段に構築された円墳で、6世紀後半に築造されたものと考えられています。乱石積み片袖型横穴式石室で、直刀3振や小刀2振、耳環や玉類などが出土しました。
総社古墳群
総社古墳群は、榛名山の裾野の末端で利根川の西岸約4キロに分布する古墳群です。前方後円墳3基、方墳3基が残されています。古墳群の南支群は消滅していますが、北支群の遠見山古墳、総社二子山古墳、愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳が残されています。

総社二子山古墳
6世紀後半に築造された大型の前方後円墳で、前方部と後円部の二つの横穴式石室があります。二段築成で墳丘斜面に葺石を葺き、墳丘全体に埴輪を立てていたと見られています。

宝塔山古墳
7世紀中期から後期に造営された大型方墳です。墳丘は三段築成で斜面には葺石が葺かれていたと考えられています。石室は加工された切石を巧みに積み上げて漆喰で白く平らに仕上げています。

蛇穴山古墳
7世紀末に造営された三段築成以上の方墳で、墳丘斜面には三段の葺石で飾られていたと考えられています。仏教の影響を受けた完成度の高い横穴式石室があり、石室壁面は漆喰で白く平らに仕上げられています。
仏教伝来と古墳時代の終わり
欽明天皇7年(538年)あるいは欽明天皇13年(552年)に百済の聖明王は、仏像や経典などを欽明天皇に送り仏教が伝来しました。大化2ねん(646年)に薄葬令が発せられ墓葬に対して規制がなされると古墳の造営は衰退していきました。

山王廃寺跡
7世紀後半に創建した古寺で、放光寺と描かれた瓦が出土したことで山上碑の放光寺と同一とされています。東北経営や新羅遠征で功績がある上毛野君が創建したと考えられています。

堀越古墳
古墳時代終末期の7世紀後半に築造された円墳です。安山岩の切石を切組積みなど高度な技法を取り入れて構築されており、石室入口前には台形に広がる前庭部が付いています。

荒砥富士山古墳
7世紀末頃に築造された4段築成の円墳で、葺石と周堀を備えています。石室は安山岩を用いて構築されており、一部に切石が使われています。
