新田荘の成立と新田義貞

八幡太郎と称された源義家の孫にたある源義重は、天仁元年(1108年)の浅間山の大噴火で荒廃した土地を再開発して土着しました。再開発された土地は新田荘となり、源義重は新田氏を称して支配しました。名門・新田氏は鎌倉幕府から不遇を受けましたが、新田義貞は鎌倉幕府を滅亡して後醍醐天皇の忠臣として称えられました。
八幡太郎・源義家
河内源氏の棟梁・源義家は、石清水八幡宮で元服して八幡太郎と呼ばれています。源義家は父の源頼義とともに前九年の役で安倍氏を討伐し、永保3年(1083年)に父とともに陸奥国司として派遣されました。源頼義は出羽国の清原氏の内紛に介入して後三年の役を鎮め、上野国を含む東国に基盤を置きました。
新田氏と足利氏
天仁元年(1108年)の浅間山大噴火で荒廃すると、源義家の三男・源義国は水田を再開発して新田荘を開き、新田荘を花山院藤原忠雅家に寄進しました。源義国は長男の源義重(新田義重)に新田荘を与え新田氏の始祖となり、次男・源義康に足利荘を与えて足利氏の始祖となります。この源義康の子孫が室町幕府を成立させますが、正統は新田氏の方にあります。
源氏の没落と新田氏
保元元年(1156年)の保元の乱を経て、平治元年(1159年)に源氏と平家が争う平治の乱となりました。源氏は平家に敗れ、源義朝は殺害されて源義朝は伊豆に流されて没落しました。新田義重は平家の軍門に下り、保元2年(1157年)に藤原忠雅から新田荘の荘官に任官されました。新田義重の子は山名義範・里見義俊・新田義兼・世良田義季・額戸経義がおり、仁安3年(1168年)に世良田荘を与えられた世良田義季の子孫が江戸幕府を開く徳川氏となります。

総持寺
新田館の一角に建てられた寺で、中世の二条の堀跡と掘立柱建物、井戸跡などが検出されたことで、新田義重の居館説や義重の孫の世良田頼氏居館説、新田義貞居館説などが残ります。
不遇の新田氏
治承4年(1180年)に源頼朝が平家打倒に挙兵すると、木曽義仲や武田信義らが挙兵するなか、新田義重は寺尾城に籠り自立を保ちました。源頼朝が関東で勢力を広げると新田義重も参陣しますが、源頼朝は新田義重に不信感を抱いて恩賞や官位を低く設定しました。新田氏の庶流である足利氏は早く挙兵に参加したため、新田氏よりも恩賞や官位など高く設定されました。この明暗は南北朝時代まで続くこととなります。

長楽寺
承久3年(1221年)に創建された東日本最初の禅寺です。新田義重の子徳川(世良田)義季を開基とし、日本臨済宗の祖栄西の高弟釈円房栄朝を開山として創建しました。

縁切寺満徳寺遺跡
徳川氏の祖・世良田義季を開基とし、その娘浄念比丘尼により創建されました。2代将軍徳川秀忠の娘千姫が豊臣家と縁を切るために入寺し、縁切寺法の特権が幕府に容認されました。
新田氏の没落
新田義重のあとは新田義兼、新田義房と続きますが、岩松氏や田中氏に所領を分与したため、新田宗家は衰退していきました。4代・新田政義は、寛元2年(1244年)に幕府に無断で朝廷に検非違使の官位を求め拒否される事件を起こし、さらに仁和寺へ無断出家したことで幕府により所領の一部が没収されました。この一件で新田本家は惣領の地位を失い、庶流の世良田義季や岩松時兼が台頭しました。
足利氏との縁戚関係
新田政義が無許可で官位を求めた行為は重い罪でしたが、縁戚関係にある足利氏の弁護もあり、所領の一部没収で存続することができました。この縁により足利氏の影響下で存続することとなり、5代・新田政氏、6代・新田基氏、7代・新田朝氏と足利氏由来の氏の字を名乗りました。

円福寺
4代・新田政義が開基したと伝えられ、京都御室の仁和寺から招いた阿闍梨静毫が初代住職といわれます。新田政義は無許可で出家した咎を受けて由良郷別所に蟄居した頃に開かれました。

新田氏累代の墓
円福寺にある20基あまりの凝灰岩製の石層塔・五輪塔群です。このうち1基には、元享4年(1324年)、新田義貞の祖父である新田基氏の法名・沙弥道義が記されています。
悲運の名将・新田義貞
8代・新田義貞は 元弘3年(1333年)に鎌倉幕府打倒を掲げた後醍醐天皇に呼応して挙兵すると、小手指原(埼玉県所沢市)・久米川(東京都東村山市)・分倍河原(東京都府中市)の戦いに勝利し、巨福呂坂・化粧坂・極楽寺坂の3方向から鎌倉に攻め込みました。幕府の抵抗により一進一退の攻防が繰り広げられますが、新田義貞は太刀を海に沈めて稲村ヶ崎に砂浜を生み出し、鎌倉に侵攻して鎌倉幕府を滅ぼす偉業を成し遂げました。
新田義貞の死
鎌倉幕府が崩壊したことで後醍醐天皇による建武新政が始められますが、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻しました。新田義貞は後醍醐天皇方として足利尊氏と争いますが、湊川の戦いで敗北して足利氏に京都を占領されました。新田義貞は恒良親王・尊良親王を奉じて越前で再起を図りましたが、延元3年(1338年)に越前藤島荘燈明寺畷で斯波高経軍の流れ矢に当たり討死しました。

新田義貞像
後醍醐天皇の討幕運動(元弘の変)に応じて挙兵し、 元弘3年(1333年)に鎌倉幕府を滅亡させたあと、南朝方の中心的な武将として足利尊氏と戦い続けるも戦死しました。

生品神社境内
新田義貞は、新田氏の産土神である生品神社の境内で後醍醐天皇からの倒幕の綸旨を受けて旗揚げしました。鎌倉を攻めた新田義貞は鎌倉幕府を滅亡させることに成功しました。

反町館跡
新田義貞が居住したとも大館氏の館跡とも伝わる館跡です。室町時代に金山城の支城となり、三重の堀を巡らす城郭に拡張されたと推定されています。

江田館跡
鎌倉攻めに従軍した江田行義の館跡と伝えられています。のちに金山城主横瀬氏の家臣矢内四郎左衛門が館を拡張して住んだと伝えられています。
新田氏の滅亡
新田義貞が亡きあと新田義宗が家督を継ぎ、観応の擾乱で足利直義方として異母弟の新田義興とともに各地を転戦しました。一時は鎌倉を奪還したとされますが、鎌倉公方・足利基氏や畠山国清により新田義興が謀殺されて次第に劣勢となりました。新田義宗は脇屋義治とともに河越直重らの武蔵平一揆に呼応しますが、関東管領・上杉憲顕の軍に敗れて討ち取られ、新田宗家は滅亡したとされています。
