歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

太田市

群馬県太田市の世良田東照宮

太田市は群馬県南東部に位置する北関東有数の工業都市であり、利根川を擁する農業地帯です。東日本で最も古代文化が栄えた地域とされ、中世には新田荘や徳川発祥の地として文化が形成されました。毎年春から初夏にかけておおた芝桜まつりが開催されることでも知られています。

概要

面積
175.54km2
人口
221,595人(2022年2月1日)
市の木
マツ、モクセイ、カエデ、イチョウ
市の花
キク、サルビア、ツツジ、シュンラン
地図

特集

群馬県の出島

新田荘の成立と新田義貞

河内源氏の棟梁・源義家の末裔である新田氏は鎌倉幕府から不遇を受けて衰退しましたが、新田義貞は鎌倉幕府を滅亡して後醍醐天皇の忠臣として称えられました。

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歴史

毛野郡の中心地として800基以上の古墳が造営され、新田荘を拠点とした新田義貞が鎌倉幕府を倒しました。新田氏の庶流は山名氏や里見氏となり、世良田氏は徳川将軍家の祖とされています。江戸時代に太田宿は日光例幣使街道の宿場町として栄え、現在は工業地帯として発展しています。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

ナウマンゾウの歯の化石が富沢遺跡から見つかり、小丸山西遺跡や焼山遺跡からナイフ形石器などが見つかります。縄文時代早期の下宿遺跡に集落を形成したのを皮切りに、縄文中期後半から後期後半にかけて集落が形成されていきました。縄文時代晩期になると集落は減少し、弥生時代においても駒形遺跡などの少数の集落のみが形成しました。

古墳時代、飛鳥時代

3世紀後半から4世紀後半に利根川を上り石田川流域に根をおろした人びとは、広大で肥沃な平野を開拓しました。4世紀末から4世紀後半には、畿内大和政権の毛野国として首長が大きな力を得て古墳も大規模なものになりました。5世紀末から7世紀になると有力者は台地や山間部に密集して古墳を建て、古墳の埋葬施設に横穴式石室を採用しています。

群馬県太田市の中溝・深町遺跡

中溝・深町遺跡

4世紀末から5世紀初頭の遺跡で、大規模な掘立柱建物跡と石敷き井戸が発見されました。この地を治めていた豪族が水の祭祀を行いました。現在は小金井史跡公園として整備されています。

群馬県太田市の朝子塚古墳

朝子塚古墳

4世紀末から5世紀初頭に造営された前方後円墳です。朝顔形円筒埴輪の祖形と見られる底に孔をあけた壷形土器が出土しています。

群馬県太田市の天神山古墳

天神山古墳

5世紀前半の古墳時代中期に築かれたと考えられている東日本最大の前方後円墳で、墳丘長は210メートルあります。

群馬県太田市の女体山古墳

女体山古墳

5世紀中期ころに築かれたと考えられる帆立貝型古墳です。天神山古墳の別称男体山に対して女体山と名付けられました。

群馬県太田市の鶴山古墳

鶴山古墳

大間々扇状地末端の低台地上に造営された長さ102メートルの前方後円墳です。甲冑や剣などの鉄製品などが出土し、5世紀後半頃と推定されています。

群馬県太田市の塚廻古墳群第4号古墳

塚廻古墳群第4号古墳

12基の古墳からなる塚廻り古墳群のひとつで、6世紀前半から中頃の古墳時代後期に造られた墳丘長22.5メートルの帆立貝型古墳です。

群馬県太田市の二ツ山古墳1号墳

二ツ山古墳1号墳

6世紀後半に造営された前方後円墳で、東毛地区でも最大規模を誇ります。石室からは金銅製の双龍文の環頭太刀把頭や圭頭把頭が出土し、本地域で最も力がある豪族の墓と考えられます。

群馬県太田市の藪塚湯之入北山古墳

藪塚湯之入北山古墳

八王子丘陵から藪塚温泉の入口北側に伸びる支丘に造営された円墳です。石室の奥壁には漆喰が塗られた跡があり、7世紀後半に造営されたと考えられています。

奈良時代、平安時代

仏教が普及して首長が寺院を建立するようになりました。7世紀末に寺井廃寺があり、この周囲に古代官道の東山道に新田駅が設置されました。弘仁9年(818年)に大地震が起こり、天仁元年(1108年)に浅間山が大噴火を起こしました。源(新田)義重は荒廃した水田を再開発して花山院藤原忠雅家に寄進し、保元2年(1157年)に新田荘の荘官に任官されました。

群馬県太田市の上野国新田郡庁跡

上野国新田郡庁跡

7世紀後半から9世紀後半にかけて営まれていた古代新田郡の郡家です。南側には東山道駅路、東側には寺井廃寺、西側には瓦葺の基壇建物跡が確認された入谷遺跡があります。

鎌倉時代、南北朝時代

元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の綸旨を受けた新田義貞が鎌倉幕府を滅亡させました。倒幕により後醍醐天皇が建武新政を始めますが、足利尊氏が反旗を翻して抗争を繰り返し、新田義貞は討死しました。

群馬県太田市の新田氏累代の墓

新田氏累代の墓

円福寺にある20基あまりの凝灰岩製の石層塔・五輪塔群です。このうち1基には、元享4年(1324年)、新田義貞の祖父である新田基氏の法名・沙弥道義が記されています。

室町時代、安土桃山時代

新田義貞が討死して没落すると新田一族の岩松氏が新田荘を支配するようになりましたが、重臣の横瀬成繁が下克上を起こして由良成繁と改称して支配しました。後北条氏と関東管領を拝命した上杉氏が争うようになると、由良氏はどちらかに味方しつつも独立状態を保ちました。天正12年(1584年)に由良氏は後北条氏の軍門に下り、天正18年(1590年)に豊臣秀吉に滅ぼされました。

群馬県太田市の金山城跡

金山城跡

文明元年(1469年)に岩松家純が築城したと言われます。凝灰岩の金山丘陵にあるため、関東地方の城に珍しく石垣が高く積み上げられているのが特徴です。

江戸時代

元和3年(1617年)に造営された日光東照社は、正保2年(1645年)に東照宮郷が朝廷から与えられて奉幣使が派遣されるようになりました。奉幣使は中山道から分岐して太田宿を経て東照宮へ至りました。元禄元年(1688年)に金山城跡で獲れる松茸を将軍に献上するため、金山御林として幕府直轄林となりました。

群馬県太田市の毛呂権蔵の墓

毛呂権蔵の墓

上野国全般にわたる歴史地理書・上野国志や長楽寺記を著した郷土史学の先駆者です。群馬県内全体の歴史地理書や風土記が無いことから、私財を投じて歴史地理書をまとめました。

群馬県太田市の高山彦九郎宅跡附遺髪塚

高山彦九郎宅跡附遺髪塚

林子平・蒲生君平とともに寛政の三奇人に数えられる尊王倒幕運動の先駆者で、幕末の志士に大きな思想的な影響を与えました。筑後国久留米で自刃しています。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治11年(1878年)に武藤幸逸が実験農場・共農舎を設立し、農事の研究や実験に取り組みました。大正6年(1917年)に中島飛行機製作所が開設したことで軍需工業都市の性格を帯び、戦後は航空機産業の技術を活かして繊維産業や自動車産業で北関東を代表する工業都市として発展を遂げました。