比企郡

比企郡は埼玉県のほぼ中央部に位置し、西の山間部から東に傾斜する地形をした自然豊かな地域です。小川町は小川和紙や建具、酒造などの伝統産業が古くから盛んで、往時の面影を留める町並みは武蔵の小京都とも呼ばれています。水と緑に恵まれた豊かな自然環境と調和した快適でゆとりと賑わいのある地域です。
概要
- 面積
- 281.86km2
- 人口
- 126,444人(2021年12月1日)
- 含む町村
- 滑川町、嵐山町、小川町、川島町、吉見町、鳩山町、ときがわ町
- 地図
特集
歴史
平安時代末期に比企郡一帯を統治していた比企氏は、源頼朝の流人時代から物心両面で支えて鎌倉幕府の有力御家人となりますが、北条氏との対立により滅亡に追い込まれました。鎌倉幕府が滅亡すると戦乱の影響を受けて在地武士団が複雑化しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代早期から丘陵部を中心に集落が営まれ、虫草山遺跡や船川遺跡などが確認されています。弥生時代中期には稲作農耕が伝わり、水田跡や稲作をうかがわせる籾跡の残る土器が出土しています。身分格差により行司免遺跡に方形周溝墓ができています。
古墳時代、飛鳥時代
越辺川流域の糀谷遺跡など沖積地に大規模な集落が営まれるようになり、峰古墳などの前方後円墳が造営されました。大化2年(646年)の薄葬令で古墳が造営されなくなりました。墓制が吉見百穴などの横穴墓に変化したのは、大和政権の直轄地として横渟屯倉を管掌するために移住した渡来系氏族・壬生吉志氏によるものと推定されています。

吉見百穴
6世紀末〜7世紀後半に造営された凝灰質砂岩を掘削して造営された横穴墓で、丘陵や台地の斜面に219基の墓跡が確認されています。

天神山横穴墓群
古墳時代後期に築造された死者を埋葬する墓穴群で、かつては5基が開口していましたが、現在は1基のみが開口しています。

黒岩横穴墓群
古墳時代後期~終末期に造られた横穴墓群で、吉見百穴よりも大規模で保存状態が良い横穴墓が500基以上あるとされています。

穴八幡古墳
7世紀の後半に築造された県内最大級の方墳で、首長の棺を納めた横穴式石室は小川町で採掘される緑泥石片岩など結晶片岩の一枚石を組み合わせています。

五厘沼窯跡群
古墳時代後期の6~7世紀に須恵器が焼かれた窯で、岩盤が高熱に耐えられるよう粘土で窯壁を補強されて、焼く度に窯を改修した痕跡が残されていました。

南比企窯跡(赤沼古代瓦窯跡)
坂戸市にある勝呂廃寺の建立のために造られた7世紀の瓦窯跡で、小用廃寺や山王裏廃寺・大西廃寺などにも供給された埼玉県内で最古の部類になる窯跡です。
奈良時代、平安時代
天平13年(741年)の聖武天皇による国分寺建立の詔で全国に国分寺や国分尼寺の造営が始まると、東日本最大級の窯跡群である南比企窯跡群などが営まれました。大同2年(807年)に蓮海という僧が皮膚病に効果がある福田鉱泉を発見しました。平安時代末期には秩父一族の畠山重忠や藤原秀郷の末裔である比企一族が源頼朝を支援しました。

岩室観音堂
弘仁年中(810~24年)に建立された寺院で、武蔵松山城の歴代城主が篤く信仰して護持されました。現在の建物は寛文年間(1661~73年)に再建されたものです。

石田国分寺瓦窯跡
8世紀中頃から10世紀初頭まで創業していた瓦窯跡で、武蔵国最大規模の古代寺院である勝呂廃寺の創建を契機として操業を始めました。

亀の原窯跡群
平安時代前半に須恵器と瓦を焼いていた9基の窯跡群でした。須恵器の生産が盛んな南比企地方最大規模の窯場で、武蔵国分寺跡や寺内廃寺に瓦を供給しました。

多武峯瓦塔遺跡
9世紀頃と推定される県内出土の瓦塔の中で最古に分類されます。塚の上には、文亀4年(1504年)の銘がある五輪塔も祀られています。

大蔵館跡
仁平3年(1153年)に源義賢が秩父重隆の娘を娶り移り住んだ館跡で、秩父氏と結んで強大化することを恐れた源義朝の命を受けた源義平から攻撃されました。

源義賢墓
源為義の次男で秩父重隆の娘との間に駒王丸(後の木曽義仲)をもうけますが、久寿2年(1155年)の大蔵合戦で源義朝の長子悪源太(源義平)に討たれました。
鎌倉時代、南北朝時代
比企能員や畠山重忠は源頼朝から厚い信頼を受けますが、北条氏の策略で非業の死を遂げました。穏やかならぬ時代において来世の幸福を願い板碑や懸仏、写経などが盛んになりました。鎌倉幕府が崩壊すると、正平7年(1352年)に新田義貞の子・新田義宗が南朝の宗良親王を奉じて笛吹峠に陣を置いて足利尊氏と戦いました。

下里・青山板碑製作遺跡
鎌倉時代から戦国時代の板碑製作遺跡で、13世紀から仏教が盛んになり緑泥石片岩製の石塔である板碑の造立が盛んになりました。

金剛院宝篋印塔
宝篋印陀羅尼経を塔内に納めて礼拝供養した宝篋印塔で、金蔵院には応安6年(1373年)と永和2年(1376年)の銘がある2基の宝篋印塔が残されています。

比企城館跡群(菅谷館跡)
有力御家人である畠山重忠が大里郡畠山荘から鎌倉街道の要衝にあたる菅谷に移した館跡で、元久2年(1205年)に畠山重忠の死後、畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられました。

広徳寺大御堂
尼将軍・北条政子が源平合戦や奥州征伐に参加した美尾屋十郎廣徳の菩提を弔うため、美尾屋氏の館跡に建立したものと伝えられています。
室町時代、安土桃山時代
山内・扇谷両上杉の対立が深まり、その虚を突いて後北条氏が台頭するなど絶えず合戦の舞台となりました。在地の人びとは羽尾七騎などの武士団を形成し、平素は農業に従事しつつ戦いでは武装して参戦しました。天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、徳川家康が関東に入部して支配下に置きました。

比企城館跡群(杉山城跡)
築城年代は定かではありませんが、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗するために築城した可能性が高いです。鎌倉街道を監視できる山の上に築かれています。

比企城館跡群(小倉城跡)
築城年代は定かではありません。槻川が大きく屈曲する場所に張り出した丘陵に築かれ、戦国時代の関東の城として珍しく石垣が随所に築かれています。

四ツ山城跡
青山城主・青木氏久の家臣石井政綱が築いたとされ、山内上杉氏方の鉢形城の支城として機能していたとみられています。

腰越城跡
上田直朝の重臣・山田直定が城主をつとめた城で、天正18年(1590年)の小田原征伐で落城又は放棄されて廃城となりました。

比企城館跡群(松山城跡)
比企丘陵の先端に建てられた平山城で、上杉謙信や武田信玄などが争奪戦が繰り広げました。天正18年(1590年)の小田原征伐で上田朝直が籠りますが落城しました。
江戸時代
徳川家康が関東に入ると松平家広が松山城に入城して松山藩を立てますが、慶長6年(1601年)に跡を継いだ松平忠頼が浜松藩に移封されて松山城は廃城となりました。比企郡は天領として支配するため、玉川陣屋や松山陣屋が置かれました。川越児玉往還(川越道)には菅谷宿や今宿などの宿場町が置かれ、今宿は越辺川の舟運など物資の集散地として栄えて武蔵の小京都とも呼ばれました。18世紀後半には関東最古級の近世地方窯である熊井焼が開窯したほか、小川和紙や小川絹などの伝統産業も栄えました。
左甚五郎に纏わる伝説
左甚五郎は日光東照宮の眠り猫などを彫刻した伝説の彫刻師です。比企郡内には彫刻した虎が畑を荒らしまわるため安楽寺の堂内に野荒し虎が納められた伝承が残り、慈光寺には夜な夜な畑の作物を荒しまわる夜荒しの名馬が納められた伝承が残されています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により熊谷県に属したのち、明治9年(1876年)に埼玉県に編入されました。明治時代の殖産興業政策により建具や養蚕などの産業が興隆して、現金収入源として農家の暮らしを支えました。明治43年(1910年)の荒川の洪水で壊滅的な被害を受けました。

巌岩ホテル
高橋峰吉が岩の崖をノミ1本で掘り始めて21年かけて彫り抜いたホテルで、大正始めには見学者が多くロンドンタイムスにも報じられたといいます。

軍需工場跡
米軍の大規模な空襲により航空機製造工場の生産能力は壊滅的な打撃を受けたため、吉見百穴地域に軍需工場が造られましたが、本格的な稼働までに終戦を迎えました。