歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

江戸から受け継がれる商業地

東京都中央区の銀座

慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いた徳川家康は、日比谷入江を埋立て土地を生み出しました。徳川家康は日本橋を中心に五街道を整備し、銀の鋳造などを行う銀座を整備しました。日本橋は交通の要衝となり、魚河岸の開場とともに大いに賑わいました。江戸の商業の中心地は明治時代以降も引き継がれて現在へと続いています。

日本橋を起点とした全国の道程

慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いた徳川家康は、日本橋や京橋を架橋して各地に向かう五街道を整備しました。建造当初の日本橋は木造の丸く反り返る太鼓橋で、火災が多い江戸で何度も火災で焼失し架け替えられました。

東京都中央区の日本橋

日本橋

明治44年(1911)に完成したルネッサンス様式の石造二重アーチ橋で、東京の繁栄を表現した麒麟像と東京を守護する獅子像が設置されています。

東京都中央区の日本国道路元標

日本国道路元標

慶長9年(1604年)には中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道の起点として全国の道程を定め、現在も国道の起点とされています。

銀座の誕生

慶長17年(1612年)に銀の買入、保管、鋳造を行う銀座を駿府から現在の銀座2丁目に移転しました。寛政12年(1800年)に銀貨に混ぜ物を混入する事件が起こり、銀座が蛎殻町に移転して蛎殻銀座となりました。銀座の役人たちはこれまで儲けた金で現在の銀座の土地を幕府から購入し、銀座通りの原型となる賑やかな商店街を造りました。

東京都中央区の銀座発祥の地

銀座発祥の地

江戸幕府の銀貨鋳造所である銀座の歴史を記念する石碑で、江戸における通用銀貨類の鋳造や検査が行われた発祥の地です。

東京都中央区の蛎殻銀座跡

蛎殻銀座跡

寛政12年(1800年)に銀座で不正が発覚して、寛政の改革の一環として銀座制度が粛清されて日本橋蛎殻町に移転しました。

魚河岸

徳川家康から佃島を与えられた森孫右衛門一族は、徳川家の食前に白魚を供する白魚御用を務めました。森孫右衛門は献上した白魚の残りを販売することを許され、元和2年(1616年)に大和屋助五郎が開いた魚市場で販売するようになり、日本橋魚河岸が始まりました。

東京都中央区の森孫右衛門墓

森孫右衛門墓

大阪から江戸に来た森孫右衛門一族は、徳川家康から佃島を与えられて居住地として造成し、徳川家の食前に白魚を供する白魚御用を務めました。

東京都中央区の日本橋魚市場発祥の地

日本橋魚市場発祥の地

江戸城へ鮮魚を献上していた佃島の人びとが、幕府の許可を得て御用として納めた残りの魚を日本橋川の岸辺で売り始めたのが起源です。

歌舞伎と青物市場

寛永元年(1624年)に猿若勘三郎が中橋(京橋と日本橋の中間)に中村座を開設し、江戸歌舞伎のはじめとなる歌舞伎狂言を上演しました。歌舞伎は庶民の最大の娯楽として隆盛を極め、寛文2年(1662年)には中村座の近くに隅田川の水運の便を利用して多くの野菜を入荷・販売する青物市場が開設しました。青物市場は主に大根を販売していたため、大根河岸市場と呼ばれるようになりました。

東京都中央区の江戸歌舞伎発祥の地

江戸歌舞伎発祥の地

江戸で独自の発展を遂げた歌舞伎は中村座のほか市村座、森田座が江戸の三大芝居小屋として名を馳せ、日本橋人形町や浅草周辺に集中していました。

東京都中央区の大根河岸市場

大根河岸市場

京橋川の水運を利用して野菜の売り場が設けられたことに始まります。神田や駒込などと並ぶ江戸の五大市場の一つとして賑わいました。

築地の造営

明暦3年(1657年)の振袖大火で江戸の町の多くが焼失したため、幕府は復興計画として隅田川河口部にあたる一帯を開発して武家地としました。元和3年(1617年)に准如上人が浅草に本願寺を再建していましたが、江戸幕府の区画整理により移転を余儀なくされ、佃島漁師の門徒たちが海を埋めてて築地を造営し本願寺に寄進しました。

東京都中央区の築地本願寺

築地本願寺

建築史家でアジア各国を旅した伊東忠太が手掛けた建造物で、インドの古代仏教建築を参考に他に類を見ないオリエンタルな外観となりました。

東京都中央区の築地波除神社

築地波除神社

築地の埋立工事は波浪で難航を極めましたが、海を漂流していた稲荷明神像を祀ると波浪が治まり、航海安全や災難除けで篤く信仰されるようになりました。

江戸から現在に続く商業地

延宝元年(1673年)に三井財閥の基礎を築いた三井高利が日本橋室町に呉服店越後屋を開き、白木屋、大丸とともに江戸の三大呉服商と称されました。越後屋は客との駆け引きで値段を決めて盆と年末に代金を支払う制度を代えて、品物に定価を表示して現金取引する新しい商法を行いました。

東京の一大商業地

明治時代を迎えた日本橋には、明治11年(1878年)に株式取引所が設立され、明治15年(1882年)に日本銀行が設立して金融業が発展していきました。三大呉服商は百貨店として進化し、昭和時代になると京都から高島屋が参入して東京の一大商業地として発展しました。

築地市場への移転

国立銀行や証券会社などの近代化を象徴する建物が建てられた日本橋では、景観や衛生上の理由から日本橋魚河岸を移転する計画が浮上しました。漁師や商人は移転に対して反対して数十年先送りされましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で日本橋魚河岸は大きな被害を受け、昭和10年(1935年)に東京市中央卸売市場が築地に開場しました。

東京都中央区の名水白木屋の井戸

名水白木屋の井戸

正徳元年(1711年)に江戸の三大呉服店の白木屋が鑿井をはじめ、観世音菩薩像が出現して地下水が自噴したといわれています。

東京都中央区の第一国立銀行跡

第一国立銀行跡

明治6年(1873年)に渋沢栄一が設立した日本初の銀行で、三井組為替方を譲り受けて本店として使用し、和洋折衷の擬洋風建築は当時の名所でした。

東京都中央区の日本銀行本店

日本銀行本店

明治15年(1882年)に日本銀行が開業すると国の威信をかけて、明治29年(1896年)に辰野金吾が設計した本館が建設されました。

東京都中央区の築地市場

築地市場

終戦とともに賑わいを取り戻し、世界最大の水産物流通量を誇る市場へと成長しました。平成30年(2018年)に建物の老朽化などで豊洲への移転が決まりました。