中央区

中央区は東京23区のほぼ中央に位置し、日本橋や銀座など日本の文化、商業などの中心地として発展を遂げてきました。日本銀行本店をはじめとする多くの金融機関が集中する金融街が形成しており、老舗百貨店から最先端のブランドショップ、オフィスビルが立ち並ぶ商業地でもあります。
概要
- 面積
- 10.21km2
- 人口
- 170,504人(2021年12月1日)
- 区の木
- やなぎ
- 区の花
- つつじ
- 地図
特集
歴史
江戸時代の埋立で生み出された中央区の多くは、日本橋川の水運と各街道が交差する要衝として海運業が発展しました。佃島に移住した人びとが魚を卸す魚河岸が形成し、呉服店越後屋や白木屋、大丸が創業して一大商業地となりました。明治時代には日本初の銀行が設立され百貨店が創業するなど、商業地としての側面が引き継がれました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代は海水面が上昇する縄文海進の影響で、東京湾の海底か湿地帯や干潟を形成していたと考えられいます。人が生活する環境にはなく、遺物や遺構が出土することは非常に稀です。
古墳時代、飛鳥時代
縄文海進の影響が後退しつつありましたが、中央区の多くは海や湿地、河川が入り組んだ低湿地帯であり、大規模な集落や古墳が築かれるような場所ではありませんでした。
奈良時代、平安時代
縄文海進が完全に終わり、隅田川や利根川の河口部に広大な沖積低地が広がりました。多くが湿地や干潟で水浸しになりやすい土地で、集落を形成するには不向きな土地でした。
鎌倉時代、南北朝時代
江戸湾に面する広大な低湿地帯に隅田川や利根川の支流が複雑に入り組む三角州を形成し、漁業を行う人びとが集落を形成し始めました。鎌倉から街道が整備され、水運の拠点としても機能し始めました。
室町時代、安土桃山時代
室町時代から利根川や荒川の河川改修が進むにつれて少しずつ陸地が形成され始めていました。
江戸時代
江戸幕府を開いた徳川家康は、摂津国佃村の漁師を関東に招いて漁業に係る特権と東京湾の干潟を与えました。佃村の漁師たちは干潟を埋め立てて佃島を造営し、幕府の許可を得て魚を卸す魚河岸を形成しました。明暦3年(1657年)の振袖火事で日本橋や佃島が延焼しますが、呉服店越後屋や白木屋、大丸が創業して一大商業地となりました。
外国船来航と幕末の動乱
幕末に外国船が来航するようになると、嘉永6年(1853年)に海防参与である水戸藩主徳川斉昭が石川島造船所を建造しました。石川島は近代的造船発祥の地となり、やがて石川島と佃島の一帯は埋め立てられて関連する工場が整備され工業地帯となり、明治時代に造船所が民間に払い下げられて石川島播磨重工業になりました。

三浦按針遺跡
オランダ東インド会社の航海士ウイリアム・アダムスが居住した地で、徳川家康の通商顧問として日英貿易の発展に貢献しました。

伝馬町牢屋敷跡
獄舎や拷問蔵などがある幕府最大規模の牢屋で、慶長年間(1596~1615)に移されて江戸町奉行の支配となりました。

旧浜離宮庭園
承応3年(1654年)に甲府藩主の松平綱重が建てた別邸は浜御殿と呼ばれ、京湾から海水を引き込んで潮汐の干満で景色が変化する庭園を造営しました。

浅野内匠頭邸跡
播州赤穂の藩主・浅野内匠頭長矩は、元禄14年(1701年)に松の廊下で吉良上野介に刃傷に及び、大石内蔵助良雄を盟主とした仇討事件を招きました。

間新六供養塔
赤穂浪士四十七士の一人である間新六の供養塔で、吉良邸討ち入りののち自身の供養を願い、槍に書状と金子を結びつけて築地本願寺に投げ入れた伝承が残ります。

賀茂真淵縣居の跡
江戸時代中期の国学者・賀茂真淵が居を構えた跡地で、縣居と称して国学を指導して本居宣長や荒木田久老などを輩出しました。

浴恩園跡
寛政4年(1792年)に老中・松平定信が造営した池泉回遊式庭園で、春風池、秋風池、池を囲む築山などがありました。

酒井抱一墓
酒井抱一は尾形光琳に私淑した画家で、根岸に雨華庵を結び弟子たちと京都の華麗な装飾画法である琳派を発展させて江戸琳派を完成させました。

蘭学事始地
中津藩奥平家の中屋敷があり、杉田玄白や前野良沢らが中屋敷に集まり、オランダ医学書・解体新書の翻訳に取り組みました。

土生玄碩墓
土生玄碩は国禁品の紋服と引き換えにシーボルトから製薬教示を得ましたが、これが発覚して禁錮の身となり後に許されて深川で眼科医となりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
幕末に多くの外国人が来日すると、明治元年(1869年)に明治政府が築地に外国人居留地を造営しました。明治5年(1872年)の銀座大火で銀座などが焼失したため、明治10年(1877年)に銀座れんが街が誕生し、明治11年(1878年)の株式取引所のほか、明治15年(1882年)に日本銀行が設立されました。明治20年(1887年)には隅田川河口の浚渫工事により取り除かれた砂や小石で月島が造営されました。
関東大震災と東京大空襲
大正12年(1923年)の関東大震災で大きな被害を受けて、日本橋魚市場が築地に移転されました。昭和16年(1941年)には東京大空襲で焦土と化し銀座には闇市ができますが、多くの建物がコンクリート製のため早く復興しました。銀座は銀ブラと呼ばれる高級感ある町歩きができる地域として、日本で最も地価の高い地域となりました。

カトリック築地教会聖堂
明治時代を迎えて築地鉄砲洲(現在の明石町付近)に外国人居留地を造営されました。明治11年(1878年)に東京で最古のカトリック教会が完成しています。

煉瓦銀座之碑とガス灯
明治5年(1872年)の銀座大火で耐火性の高い煉瓦造りの町並みに変化し、明治15年(1882年)に日本最初の電灯柱が建てられました。

歌舞伎座
明治22年(1889年)に開業して焼失と修復のほか時代に合わせて改築・改装を経て、第5期歌舞伎座となりました。

銀座和光本店の時計台
明治27年(1894年)にネオ・ルネッサンス様式の木造建築として完成しますが関東大震災で焼失し、明治7年(1932年)に再建されました。

月島もんじゃストリート
昭和25年(1950年)頃に東京下町の味であるもんじゃ焼きを提供する店が並ぶ500メートルほどの商店街がつくられました。

晴海ふ頭公園
昭和30年(1955年)に開港した晴海埠頭は夜景の美しい場所で、巨大化した大型客船がレインボーブリッジの下を通航できなくなり公園化されました。