忠臣蔵・赤穂事件の顛末

松の廊下の刃傷事件で赤穂藩浅野家が改易処分となると、大内内蔵助らは吉良上野介への仇討ちを計画しました。赤穂四十七士は仇討ちを成し遂げげて主君の墓前に報告すると、潔く幕府に出頭して切腹に処されて果てました。この赤穂事件は江戸庶民に絶大な人気を得て、忠臣蔵をはじめとする浄瑠璃や歌舞伎の演目となり、現在もなお国内外で高い評価を得ています。
山鹿素行と赤穂藩
林羅山に儒学を学んだ山鹿素行は、兵法師範として播州赤穂藩に召し抱えられて赤穂城の設計に関わりました。万治元年(1660年)に浅野家からの処遇に不満を抱いて赤穂藩を離れますが、寛文6年(1666年)に執筆した聖教要録が不届きなる書物として赤穂藩に配流となりました。山鹿素行の思想は赤穂藩に影響を与えたとされる一方、吉良上野介義央とも興隆があり、延宝3年(1675年)に赦免されて江戸に戻ると、吉良上野介義央に面会して漢詩を詠んだとされています。

山鹿素行墓
朱子学に不満を抱き古学に転じ、高潔な人格者として仁政を施す士道を提唱しました。朱子学を批判した聖学の出版で赤穂へ流罪となり、大石良雄ら赤穂浪士に影響を与えました。
松の廊下の刃傷事件
元禄14年(1701年)に勅使饗応役の播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は、江戸城松の廊下で高家吉良上野介義央に斬りかかる事件を起こしました。この日は5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院が朝廷から従一位の官位を授けられる儀式が執り行われる予定で、この大切な日の不祥事に対して将軍・徳川綱吉は激怒し、浅野内匠頭を即刻切腹として所領没収のうえ改易としました。
名君・吉良上野介
吉良上野介は江戸幕府で儀式などを司る高家の筆頭でした。忠臣蔵に描かれる吉良上野介は、浅野内匠頭を公で罵倒して遺恨を残した悪人として描かれていますが、吉良上野介の領地である愛知県西尾市吉良町では、黄金堤を造り富好新田を開発して善政を敷いた名君と語り継がれています。

浅野内匠頭邸跡
播州赤穂の藩主・浅野内匠頭長矩は松の廊下で吉良上野介に斬りかかり、大石内蔵助良雄を盟主とした仇討事件を招きました。

浅野土佐守邸跡
内匠頭の正室・亜久里は、浅野内匠頭が切腹すると出家して瑶泉院となり、現在の赤坂氷川神社にあった実家の浅野式部小輔長照に引き取られました。
赤穂藩浅野家の改易
松の廊下事件の知らせを受けた赤穂藩の家臣たちは、赤穂城に籠城するか浅野内匠頭の弟・浅野長広による御家再興を目指すか意見が割れました。幕府は松の廊下事件を浅野内匠頭の一方的な斬りつけとしていたため、吉良上野介と吉良家には何らお咎めがありませんでした。赤穂藩の家臣たちは不満を募らせましたが、筆頭家老・大石内蔵助良雄は素直に城を明け渡して浪人の道を選びました。
赤穂事件
浅野家の筆頭家老・大石蔵助良雄は、浅野内匠頭の弟・浅野長広が家督を継げるように働きかけましたが、幕府はこれを認めませんでした。大石蔵助良雄と強硬派たちは吉良上野介の仇討ちとして吉良邸の討入を表明しました。仇討ちによる混乱を恐れた幕府は、元禄14年(1701年)に呉服橋の吉良邸を郊外にある本所松坂町へ移しました。
吉良邸討ち入り
赤穂浪士たちは仇討ちの機会を伺いましたが、警備が厳重で吉良上野介が在宅している日がつかめずにいました。赤穂浪士は失職しているため困窮していましたが、吉良上野介が茶会を催すことを突き止めて決起日が決まりました。元禄15年(1703年)に赤穂浪士たちは吉良邸に討入り、吉良上野介ら20名余りを討ち取ることに成功しました。

赤穂浪士元禄義挙の跡
吉良上野介邸の跡地で、赤穂浪士47士が討入した赤穂事件の舞台です。赤穂浪士は切腹となりますが、仮名手本忠臣蔵のとして語り継がれています。

吉良の首洗い井戸
赤穂浪士たちは2手に分かれて吉良邸に押し入りました。台所の隣にある小部屋で吉良上野介を見つけ出し、吉良邸にある井戸で吉良上野介の首を洗いました。
赤穂事件の末路
午前4時に始められた仇討ちは夜が明けた頃に遂げられて、主君が葬られている泉岳寺へと隊列を組んで向かいました。昨日まで誰も知らないほど知名度の低い泉岳寺は、討入を聞いた江戸の人びとが見学に訪れて一夜にして有名な寺となりました。討入された吉良家は改易処分となり、吉良邸は江戸幕府に没収されました。

浅野長矩墓
事を成し遂げた赤穂浪士たちは急いで泉岳寺へ向かい、吉良の首を墓前に供えて焼香したのち、潔く自ら幕府に出頭しました。

荻生徂徠墓
5代将軍・徳川綱吉の側用人である柳沢吉保に仕え、吉良邸に討ち入りをした赤穂浪士を名分論でなく秩序紊乱者として処分することに道をつけました。
赤穂浪士47士の最後
仇討ちを終えた赤穂浪士47士は、細川越中守綱利、松平隠岐守定直、毛利甲斐守綱元、水野監物忠之の4大名家に預けられました。5代将軍・徳川綱吉はこの報告を聞いて、主君への忠義を守ろうとした武士の気概を大いに喜びましたが、荻生徂徠は仇討ちは私情であり騒動を起こしたことは法律により責任を取らねばならないとして、赤穂浪士は切腹に処されて主君が眠る泉岳寺に葬られました。

水野監物邸跡
奥田貞右衛門行高、茅野和助、神崎与五郎、間 重次郎、間瀬孫九郎、三村次郎左衛門、村松三太夫、矢頭右衛門七、横川勘平の9名が預けられ切腹しました。

毛利甲斐守邸跡
岡島八十右衛門、吉田沢右衛門、武林唯七、倉橋伝助、村松喜兵衛、杉野十平次、勝田新左衛門、前原伊助、小野寺幸右衛門、間新六の10名が預けられました。

赤穂義士墓地
主君の仇討ちを遂げた赤穂四十七士は、主君・浅野内匠頭の墓の近くに置かれました。忠臣蔵として国内外で人気が高いため、多くの参拝者が訪れています。

間新六供養塔
赤穂浪士四十七士の一人である間新六の供養塔で、吉良邸討ち入りののち自身の供養を願い、槍に書状と金子を結びつけて築地本願寺に投げ入れた伝承が残ります。

赤穂浪士供養塔
観音寺第6世・朝山和尚の兄弟である近松勘六行重と奥田貞右衛門行高が仇討ちで切腹となり、観音寺境内に四十七士の供養塔を建てて供養しました。
忠臣蔵
犬公方と言われた徳川綱吉の統治下において抑圧されていた民衆は、赤穂事件に深く感銘してたくさんの創作物の題材となり、中でも仮名手本忠臣蔵は最も有名な浄瑠璃や歌舞伎の演目となりました。当時は実際に起きた武家がらみの事件を題材とすることは禁じられており、時代背景や内容は大きく改変されたため、赤穂事件と忠臣蔵は混同されるようになりました。