日本近代教育の基礎と発展

日本有数の文教地区としても知られる文京区は、朱子学を基盤とする幕府の官学を学ぶ昌平坂学問所が設置されたことで日本の学校教育発祥の地とされました。明治時代に帝国大学(現東京大学)などの教育機関が設立され、出版や印刷業が栄えたことで文豪ら文化人が居を構えて多くの優れた作品が生まれました。
林羅山と江戸の国学
儒学者・林羅山は、徳川家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代にわたり侍講を務め、徳川幕府の基本的な政治思想や文化政策の形成に絶大な影響を与えました。儒教を基盤とする朱子学は社会の倫理規範や政治思想を説く実践的な側面があり、封建社会における身分秩序を正当化しました。
昌平坂学問所と儒学の興隆
5代将軍・徳川綱吉は、元禄3年(1690年)に林羅山が上野の私邸に建てていた私塾(弘文館)と孔子廟(先聖殿)を湯島に移築して湯島聖堂とし、寛政9年(1797年)に幕府直轄の昌平坂学問所を開設して朱子学を教えました。

大塚先儒墓所
寛文10年(1670年)に林羅山門下の人見卜幽軒が邸宅内に埋葬されたことを契機に木下順庵、室鳩巣、古賀精里、柴野栗山、尾藤二洲ら64基の儒教式墓地となりました。

湯島聖堂
元禄3年(1690年)に5代将軍徳川綱吉が林羅山の私塾・弘文館と孔子廟を湯島に移築したもので、寛政9年(1797年)に幕府直轄の昌平坂学問所が開設されました。

平野金華墓
江戸時代中期の漢学者・漢詩人で、荻生徂徠に儒学を学びました。不真面目で攻撃的な性格から謹厳実直な太宰春台と対立しました。

原氏墓所
江戸時代中期から後期にかけて活躍した儒学者の原氏一族の墓で、原双桂、原敬仲、原念斎、原徳斎の4つの墓が残されています。

安井息軒墓
昌平坂学問所の儒官となり、西洋の学問や国際情勢にも関心を持ち、日本の開国や近代化の必要性を早くから認識していました。
朱舜水と小石川後楽園
中国明の儒学者である朱舜水は、寛永21年(1644年)に明の滅亡に伴い日本に亡命して帰化しました。朱舜水は、寛文5年(1665年)に水戸藩2代藩主徳川光圀に招かれ、独自の古学による古今の儀礼を伝授しました。水戸徳川家の江戸上屋敷にある後楽園の名称や設計にも朱舜水の意見が取り入れられました。

朱舜水記念碑
明国の滅亡により日本に亡命した儒学者で、水戸徳川家2代藩主・徳川光圀に招かれて独自の古学を伝えて水戸学の思想にも大きな影響を与えました。

小石川後楽園
寛永6年(1629年)に水戸藩初代藩主・徳川頼房が京都風の庭園の整備を始め、2代徳川光圀が朱舜水の意見をとり入れて儒教の影響を入れて完成させました。

神田上水
初代水戸藩主徳川頼房は京都から庭師を集めて京都風の庭園を造営し、庭園に神田上水を引入れて回遊式築山泉水庭園を造営しました。

円月橋
庭園で最も特徴的な円月橋は、国内最古の石造アーチ橋の一つで朱舜水の設計と指導により駒橋嘉兵衛が建造しました。
文化の興隆
江戸時代中期まで街角の辻講釈などで講談が演じられていましたが、講談師の伊東燕晋が文化4年(1807年)に湯島天神宮の境内に高さ三尺の高座を設けて徳川家康の偉業を語りました。これが高座の始まりとされ、江戸庶民の文化の発信地となりました。

講談高座発祥の地
講談師の伊東燕晋が文化4年(1807年)に湯島天神宮の境内に高さ三尺の高座を設けて徳川家康の偉業を語り、これが高座のはじまりとされます。

滝亭鯉丈墓
江戸時代後期の戯作者で、江戸の庶民文化を反映した娯楽作品を数多く生み出し、後の人情本にも影響を与えました。
文教地区の形成
江戸幕府に代わり明治政府が発足すると、諸外国に倣い政治や教育などの体制が一新されました。近代化を進める明治政府は、明治4年(1871年)に文部省を新設して、翌年に近代的な学校制度を定めた学制を公布しました。全国には学校が設置され、明治10年(1877年)には東京大学を設立して多くの外国人教師を招いて各種学術の発達が図られました。
東京大学
明治10年(1877年)に幕府の蕃書調所を前身とする東京開成学校と幕府の医学所を前身とする東京医学校が合併して旧加賀藩上屋敷跡地に移転しました。明治19年(1886年)に帝国大学となり、帝国大学工科大学や帝国大学農科大学を吸収して明治30年(1897年)に東京帝国大学となりました。昭和22年(1947年)に東京大学へ改称しました。

同人社の跡
明治6年(1873年)に中村正直が自宅邸内に開いた私塾で、福沢諭吉の慶応義塾、近藤真琴の攻玉社と並んで江戸の三大私塾と称されました。

西村茂樹墓
明治6年(1873年)に福沢諭吉や中村正直らとともに明六社を起こし、明治9年(1876年)に東京修身学舎を設立して日本道徳論を唱えました。

旧東京医学校
明治9年(1875年)の建物で、昭和44年(1969年)に小石川植物園に移設保管されました。

小石川植物園
貞享元年(1684年)に5代将軍・徳川綱吉が整備した薬園は、明治10年(1877年)に東京大学の附属植物園として一般公開されました。

旧加賀屋敷御守殿門 (赤門)
13代藩主前田斉泰が11代将軍徳川家斉の娘溶姫を正室に迎えるため、文政10年(1827年)に建立した御守殿門で東京大学のシンボルとなりました。

東京大学安田講堂
安田善次郎氏の寄付で建造された大講堂で、昭和43年(1968年)の東大闘争全学共闘会議(全共闘)で荒廃ましたが、昭和63年(1988年)に改修されました。

井上哲次郎宅跡
哲学者・詩人として知られる井上哲次郎の旧居跡で、ドイツ留学から帰国して東京大学教授となりました。新たにドイツ系哲学を唱えました。

東洋大学発祥の地
明治20年(1887年)には井上円了が麟祥院の一棟を借りて東洋大学の前身となる哲学館を創立しました。麟祥院には東洋大学発祥の地の石碑が残ります。
日本近代文学の中心地
旧帝国大学(東京大学)がおかれた本郷地区を中心に、学問に必須である出版・印刷業が栄え、多くの知識人や文化人が集まりました。坪内逍遥、森鷗外、夏目漱石、樋口一葉などが小説家や詩人たちも居を構えるようになり、後世に残る優れた作品が多数生まれました。

森鷗外遺跡
観潮楼と名づけられた森鴎外の住居跡で、高瀬舟などの名作が生まれました。跡地には文京区立森鴎外記念館が開館しています。

幸田露伴宅跡
明治を代表する文豪・幸田露伴の邸宅跡で、何度も転居を繰り返したことから自らの庵号を蝸牛庵と名付けました。

徳田秋声旧宅
明治時代末期に建築された徳田秋声の旧宅です。徳田秋声は尾崎紅葉に師事し、自然主義文学の第一人者となりました。