文京区

文京区は東京23区のほぼ中央に位置し、武蔵野台地の一部である本郷台地を中心に、神田川などの谷が入り組む起伏に富んだ地形をしています。学術・教育・文化の中心地として知られ、小石川植物園や六義園などの緑豊かな地域で由緒ある神社仏閣が多い落ち着いた雰囲気があります。
概要
- 面積
- 11.29km2
- 人口
- 239,750人(2021年12月1日)
- 区の木
- いちょう
- 区の花
- つつじ
- 地図
特集
歴史
江戸時代に建てられた湯島聖堂は日本の学校教育発祥とされ、明治時代以降も東京大学など高等教育機関が設立されました。多くの文豪が居を構えたことで出版社が多く立地して印刷・製本関連企業が集積したほか、大学病院などの大規模な医療機関や医療機器企業が集積して日本有数の文教地区となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
本郷地区には旧石器時代から人が住み始めたとされ、縄文時代の遺跡が確認されています。本郷台地東端の弥生町向ヶ丘には弥生時代後期の周濠に囲まれた集落跡が見つかり、集落には貝塚が伴い貝類のほか土器が出土しています。

動坂遺跡
都立駒込病院の外溝工事で発見された縄文中期の貝塚で、住居跡と土器、特におもりが多く出土したため、このあたりで漁労が営まれていました。

弥生二丁目遺跡
明治17年(1884年)に貝塚から出土した壺型土器は、縄文土器とは異なる特徴があり弥生式土器と名付けられ、その土器が使われた時代は弥生時代と呼ぶようになりました。
古墳時代、飛鳥時代
円墳の曙町古墳、御殿町古墳、白山神社古墳や前方後円墳の富士神社古墳などが造営されました。
奈良時代、平安時代
台地と谷が複雑に入り組んだ自然豊かな原野が広がり、武蔵国豊島郡の湯島郷、日頭郷と呼ばれる小さな集落が形成していました。
鎌倉時代、南北朝時代
原野が広がる寒村が営まれるにすぎませんでしたが、鎌倉幕府が成立して鎌倉から各地に街道が整備されたと考えられています。

湯島天満宮
雄略天皇2年(458年)に雄略天皇の勅命により創建したとされ、正平10年(1355年)に住民の請願により菅原道真が合祀されました。
室町時代、安土桃山時代
関東管領上杉氏が支配するようになり、太田氏や豊島氏などの豪族が争うようになりました。太田道灌は湯島天満宮の社殿を再興したとされます。後北条氏が台頭して支配下に置きましたが豊臣秀吉に滅ぼされて、徳川家康が関東に入封しました。
江戸時代
天正18年(1590年)に徳川家康が関東移封となり、江戸城下町の整備が進められました。大名屋敷や武家屋敷が置かれ、伝通院、護国寺、根津神社などが創建しました。根津神社の門前町には伊勢屋や大黒屋など多数の遊女屋があり岡場所(非公認の遊廓)が形成されました。

御茶の水
神田川の北岸にある江戸時代の名所で、この地の高林寺の井戸水が将軍家に献上されたことから名付けられました。

春日局墓
寛永元年(1624年)に春日局の発願を受けた3代将軍徳川家光が創建し、寛永20年(1643年)に春日局の法号から天澤山麟祥院と改称されました。

懐徳館庭園(旧加賀藩主前田氏本郷本邸庭園)
3代将軍・徳川家光と大御所の徳川秀忠の訪問に先だち、寛永6年(1629年)に加賀藩3代藩主前田利常が造営した育徳園心字池(三四郎池)を中心とした庭園です。

亮賢僧正墓
天和元年(1681年)に5代将軍・徳川綱吉の命により護国寺を開山しました。護国寺は桂昌院念持仏の琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊としています。

根津神社本殿
宝永3年(1706年)に甲府藩主の松平綱重の屋敷近くに甲府松平家の産土神・根津権現社が千駄木から遷されて根津の地名が生まれました。

駒込名主屋敷
享保2年(1717年)に建築された高城家の屋敷です。高木家は大阪夏の陣で豊臣方の残党として亡命し、傳通院領の駒込の開拓を許されて名主を務めました。

最上徳内墓
江戸時代後期の北方探検家で、天明4年(1784年)に幕府の測量隊とともに蝦夷地に渡り、国後島や択捉島を経て日本人として初めてウルップ島に渡りました。

近藤重蔵墓
寛政10年(1798年)に松前蝦夷御用取扱を命じられ、最上徳内らとともに蝦夷地の北東にある千島列島を探検し択捉島を訪れました。

高島秋帆墓
西洋式の高島流砲術を創始した高島秋帆は、天保12年(1841年)に武州徳丸ケ原(板橋区高島平)で洋式訓練や実弾射撃を行い藩士に砲術を教授しました。

藤田東湖護母致命の処
幕末の水戸藩士で勤王家の藤田東湖は、安政の大地震で母を助けるため家屋に入り救出後に家屋の倒壊で下敷きになり圧死しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
東京大学をはじめとする高等教育機関や出版社がたくさん立地したことから、文豪たちも居を構えるようになりました。印刷や製本関連産業が盛んになるほか、大学病院や医療機器企業が集積してメディカルタウンとなりました。明治12年(1879年)に設立した東京砲兵工廠は、大正12年(1923年)の関東大震災で被害を受け、昭和10年(1934年)までにその機能が九州小倉に移転されました。戦後に学生運動が盛んになり、昭和43年(1968年)の東大闘争全学共闘会議(全共闘)では東京大学大講堂(安田講堂)が数カ月占拠されました。

沢宣嘉墓
尊王攘夷派の公家で三条実美らとともに活動し、明治2年(1869年)から外国官知事から外務卿に就任して外交に携わりました。

三条実美墓
幕末の尊王攘夷派の公家で、明治政府の副総裁などの要職に就き、明治18年(1885年)に廃止されるまで太政大臣を務めました。

六義園
柳沢吉保が元禄15年(1702年)に造営した庭園で、明治11年(1878年)に三菱財閥創業者の岩崎彌太郎が購入して別邸としました。

養育院跡
急増した窮民を収容保護するため、明治5年(1872年)に養育院が設立され、明治29年(1896年)に現在の大塚病院と大塚公園のあたりに移転しました。

旧安田楠雄邸庭園
豊島園の開園者である藤田好三郎が建設した庭園は、大正12年(1923年)に安田財閥の安田善次郎の娘婿善四郎が購入して長男安田楠雄が相続しました。

東京ドーム
昭和12年(1937年)の後楽園球場を前身として、戦時中の高射砲陣地や戦後の競輪場開設を経て、昭和63年(1988年)に東京ドームが完成しました。