江戸の娯楽の中心地・浅草

浅く草が茂る土地という意味で名付けられた浅草は、飛鳥時代に浅草寺が創建して門前町として繁栄しました。浅草寺は都内最古の寺院で多くの参拝者や観光客で賑わい、周囲には猿若三座で知られる芝居小屋などの娯楽施設が形成しました。明治時代以降も浅草六区に日本初の映画館ができるなど東京の娯楽の中心地として発展しました。
浅草寺の創建
檜前浜成と竹成兄弟が隅田川で漁撈を営んでいたところ、海に投げ入れた網に金色の仏像が掛かりました。二人は不思議に思い、村の賢人である土師中知に相談することにしました。この像を拝した土師中知は観音菩薩の神性に感銘を受け、推古天皇36年(628年)に自宅を寺に改装して観音菩薩を祀りました。これが浅草寺の起源とされています。

浅草寺
土師中知が建てた小さな寺は、大化元年(645年)に勝海上人が観音堂を建立して宗教的な聖地として次第に発展していきました。
浅茅ヶ原と呼ばれた荒れ地
飛鳥時代や奈良時代の浅草一帯は、浅茅ヶ原と呼ばれる大きな池と草むらだけの荒れ地でした。飛鳥時代から奈良時代にかけて五畿七道が整備されると、隅田川を渡る橋場の渡しも整備され、奥州へ向かう交通の要所となりました。
姥ヶ池の鬼婆伝説
浅茅ヶ原には老婆と美しい娘が住む一軒家のみで、隅田川で足止めされた旅人を迎えては旅人の寝床に大きな石を落として殺害し、金品を強奪して遺体を池に沈めました。ある日、若い僧侶が訪れると娘は僧侶の身代わりとして寝床に入り、老婆により殺害されました。老婆は娘を失い、これまで多くの命を奪った悔いから池に身を投じ、姥ヶ池と呼ばれるようになりました。
梅若伝説
平安時代中頃に貴族の子である梅若丸は、京都で信夫藤太にさらわれて浅草の外れまで連れ回されました。梅若丸は長旅の疲れから隅田川のほとりで病にかかり、置き去りにされて12歳の若さで亡くなりました。梅若丸の母は息子を探して浅草にたどり着き、梅若丸の死を嘆いて出家し妙亀尼となり菩提を弔いましたが、妙亀尼は悲しさのあまり鏡ヶ池に身を投じてしまいました。

姥ケ池
鬼婆が殺害した旅人や自身が身を投じた鬼婆伝説が残る池でしたが、明治24年(1891年)に埋め立てられて石碑のみが残されています。

妙亀塚
梅若丸を弔うためにつくられた塚で、母の妙亀尼が菩提を弔いました。この梅若伝説は謡曲・隅田川として語り継がれています。
平公雅による伽藍整備
坂東平氏が関東に土着して勢力を拡大すると、平将門が新皇を名乗り平将門の乱を起こしました。平将門の乱が鎮圧されると、天慶5年(942年)に平公雅が武蔵国の国司となり、荒廃した浅草寺を再建しました。治承4年(1180年)に平氏討伐のため挙兵した源頼朝は、浅草寺で戦勝祈願して関東武士から崇敬されるようになり、鎌倉に鶴岡八幡宮を造営するときに浅草の宮大工を招聘したと言われます。

雷門
平公雅が駒形付近に雷門を創建し、鎌倉時代に現在の場所に移築されました。門の両側に祀られる風神や雷神は鎌倉時代に置かれたとされます。

仁王門
天慶5年(942年)に平公雅が建立したとされる門で、両側に金剛力士像が祀られています。徳川家光が再建しましたが、戦争の空襲で焼失しました。

浅草寺五重塔
天慶5年(942年)に平公雅が三重塔を建立し、慶安元年(1648年)に徳川家光が再建しましたが、空襲で焼失したため、昭和48年(1973年)に再建されました。

六地蔵石燈籠
久安2年(1146年)、久安6年(1170年)あるいは応安元年(1368年)に建立された石灯籠で、元花川戸町から移設されました。
浅草寺の門前町
慶長8年(1603年)に徳川家康が江戸に幕府を開き、江戸の人口は急増していきました。源氏の末裔を自負する徳川家康は浅草寺を庇護して祈願所と定め、多くの参拝客が浅草寺を訪れるようになりました。浅草寺で清掃などを行う地元の人びとは、参拝客らに商品を販売できる特別な許可を幕府から得たことで、仲見世が形成されていきました。
隅田川の花見と花火
浅草寺の横を流れる隅田川は暴れ川として知られる利根川の支流にあたり、決壊して被害をもたらすことがありました。8代将軍・徳川吉宗は、陸路や水路を利用して多くの参拝者が浅草寺を訪れることに目をつけて、隅田川の両岸に堤防を築いて桜を植えて参拝者が花見で踏み固めるようにしました。享保17年(1732年)に大飢饉や疫病が発生すると、その犠牲者への慰霊と悪病退散のため、翌年から隅田川で水神祭を行い両国橋周辺の料理屋が公許を受けて花火を打ち上げました。これが隅田川花火大会の起源とされています。

浅草見附
奥州街道、日光街道に面する要衝として外様大名や不審者を取り締まる際に使われ、不審な人物をいち早く見つけるための拠点が置かれていました。

仲見世
浅草寺境内の掃除の賦役を課せられた人びとに対して、境内や参道上に出店営業の特権が与えられたことに始まる日本で最も古い商店街のひとつです。

伝法院庭園
作庭家・小堀遠州が作庭したとされる五重塔を借景とした周遊式池泉庭園で、都内では池上本門寺の松涛園と皇居東御苑二の丸庭園の3ヶ所のみです。

隅田川
隅田川のほとりに造営された堤防には桜並木が作られました。隅田川は桜の名所となり、花火が打ち上げられるなど庶民の娯楽地となりました。
江戸の娯楽の形成
浅草には年貢米が納められる米蔵があり、この米を現金に換える札差と呼ばれる商人が集まりました。札差は米の売買で莫大な利益を上げ、こうした豪商たちを対象として娯楽が栄えていきます。明暦3年(1657年)の明暦の大火で江戸市街の6割が焼失しすると、幕府は火除地として広小路を設けるなど現在に近い町割りとなり、江戸の中心に近い日本橋の吉原遊郭は治安上の理由から日本堤に移転しました。
芝居町の形成
水野忠邦により奢侈禁止を命じた天保の改革が進められると、天保14年(1843年)までに猿若三座の名で知られる中村座、森田座、市村座の歌舞伎座が移転し、さらに人形浄瑠璃2座が浅草猿若町に移転して一大芝居町となりました。

浅草迷子しらせ石標
多くの死傷者が出た安政の大地震のときに迷子の情報を交換するため建てられたもので、戦後あらためてこの場所に再建されました。
東京の娯楽の中心地
明治時代になると、浅草六区に日本初の映画館が開設されるなど、東京の娯楽の中心地として発展しました。戦争の大空襲で破壊されましたが、復興して有数の観光地となりました。東京三大祭のひとつ三社祭が開催され、奥浅草では都内最大級の酉の市が開催されます。

凌雲閣浅草十二階
明治23年(1890年)に建造された日本初の電動式エレベータを備えていた日本一のレンガ造りの塔でしたが、大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊して撤去されました。

浅草
浅草は江戸時代から継続する娯楽の中心地として発展し、隅田川の対岸には平成24年(2012年)から東京スカイツリーが聳えています。