台東区

台東区は東京23区のほぼ中心に位置し、西は上野山、東は隅田川に面した典型的な下町です。上野山には国立博物館、国立科学博物館や世界遺産に登録された国立西洋美術館など多くの美術館などが集積し、夏には隅田川花火大会や浅草サンバカーニバルなどが行われるなど歴史や文化資源が豊富です。
概要
- 面積
- 10.11km2
- 人口
- 212,624人(2021年10月1日)
- 区の木
- サクラ
- 区の花
- アサガオ
- 地図
特集
歴史
江戸時代に寛永寺が創建し、浅草寺とともに門前町を形成しました。隅田川による水運が発達して蔵前に米蔵が作られ、芝居小屋や吉原の人びとを対象として日本有数の伝統工芸産業の集積地として町人文化が花開きました。幕末には寛永寺に彰義隊が立て籠もり、上野戦争に発展しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
原始時代は大部分が海底か湿地帯で、上野台地で人が生活して縄文時代中期から後期の領玄寺貝塚ができました。縄文時代に利根川や荒川を通じて隅田川に土砂を運び、弥生時代に陸地化していきました。
古墳時代、飛鳥時代
上野台地に3~7世紀の墓が造営されましたが、公園整備に伴い多くが消滅しました。唯一現存しているのは上野公園にある摺鉢山古墳で、5世紀頃の前方後円墳と考えられています。
奈良時代、平安時代
低地に集落が形成するようになり、7世紀に浅草寺が創建しました。源義家が奥州に向かう途中で愛馬が死んでしまい駿馬塚がつくられました。

浅草寺
土師中知が建てた小さな寺は、大化元年(645年)に勝海上人が観音堂を建立して宗教的な聖地として次第に発展していきました。
鎌倉時代、南北朝時代
特に記録は見当たりません。

元三島神社
弘安4年(1281年)の蒙古襲来で河野通有が三島水軍を率いて大山祇神社に必勝祈願して武功を得め、上野の河野氏の館に鎮座されたことに始まります。
室町時代、安土桃山時代
特に記録は見当たりません。
江戸時代
上野に寛永寺が創建し、浅草の浅草寺とともに門前町を形成しました。隅田川の水運の利便性が向上したことで蔵前に米蔵が作られ、幕臣の禄米支給を一手に担うことで幕府の経済を支える中心地となりました。浅草周辺は隅田川による水運が発達して、芝居小屋や吉原で働く人びとからの需要に応える形で、日本有数の伝統工芸産業の集積地として発展しました。

大久保主水墓
大久保忠行という武士で、用水事業を命ぜられて武蔵野最大の湧水地である井の頭池や善福寺池から江戸城をはじめとする江戸市中に引水する神田上水を整備しました。

赤穂浪士供養塔
観音寺第六世朝山和尚の兄弟・近松勘六行重と奥田貞右衛門行高が、元禄15年(1702年)の吉良邸討入で切腹して果てたことから供養塔が建立されました。

幡随院長兵衛墓
幡随院長兵衛は町奴の頭領で、慶安3年(1650年)に旗本奴の頭領・水野十郎左衛門と対立し謀殺されたことで民衆の英雄像となり、多くの芝居や講談などの主人公になりました。

玉川庄右衛門及び同清右衛門墓
玉川兄弟と呼ばれる庄右衛門と清右衛門は江戸市民の飲料水確保のため、承応3年(1654年)に玉川上水を開削しました。

浄厳律師墓
浄厳律師は真言宗の高僧で、元禄4年(1691年)に柳沢吉保の邸宅で5代将軍徳川綱吉に謁見し、深く帰依した徳川綱吉は浄厳を開基として霊雲寺を創建しました。

樋口定伊墓
樋口定伊は上州馬庭念流18代当主の剣豪で、水戸藩徳川斉昭に見込まれて水戸藩に剣術を教授し、天留の術を創案しました。

大原重徳墓
安政5年(1858年)の日米修好通商条約の勅許に反対した宮中政治家で、慶応3年(1867年)の王政復古に伴い参与などを歴任しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
寛永寺の敷地は日本初の公園・上野恩賜公園が整備され、公園内には国立の博物館、美術館、動物園なども作られました。浅草は六区に見世物小屋や芝居小屋が集団移転したため日本一の歓楽街・娯楽街となりました。根岸は明治時代以降も風流人の別荘地として愛され、森鴎外や正岡子規など日本を代表する文人も住居を構えました。
戦後の高度経済成長
戦後に東京で巨大な建築需要が生まれたため、上野駅には集団就職者、出稼ぎ労働者で溢れました。上野駅から御徒町駅の間には巨大な闇市が生まれ、蔵前、浅草、浅草橋、御徒町などの問屋街も戦後復興における全国的な需要増に支えられ、さらに専門性を増して細分化していきました。

鶯谷
寛永寺の火除地には料亭や商店が建つようになり、戦後の復興の過程で上京した出稼ぎや集団就職者の簡易宿泊街がやがて連れ込み旅館と変貌しました。

アメヤ横丁
摩利支天徳大寺の門前町は戦後に闇市が形成して傷痍軍人が募金活動をしました。やがて闇市は商店街として発展してアメヤ横丁となりました。

夕焼けだんだん
日暮里駅から谷中銀座に至る階段道で、夕焼けが美しく見えるスポットとしてマスコミなどに取り上げられ、一般公募により命名されました。