寛永寺と将軍家の栄枯盛衰

江戸幕府を開いた徳川家康は、寛永2年(1625)に慈眼大師天海大僧正により寛永寺を創建しました。寛永寺は徳川将軍家の菩提寺となり、輪王寺宮が山主を兼任して仏教界に君臨しました。慶応4年(1868年)の上野戦争で新政府軍と彰義隊の戦闘で焼失し、多くの敷地が蘭医アントニウス・ボードウィンの進言により上野恩賜公園として整備されました。
寛永寺の創建
寛永2年(1625年)に慈眼大師天海大僧正は、京都御所と琵琶湖、鬼門を守る比叡山の位置関係を江戸城と不忍池上野の山に見立て、東の比叡山として東叡山寛永寺を創建しました。徳川将軍家から篤い庇護を受けた寛永寺はかつて上野恩賜公園一帯を境内とする壮大な寺院で、寛永寺の下には門前町が形成して隣接する谷中地域にも多くの寺院が建立されました。

上野恩賜公園噴水広場
かつて寛永寺の根本中堂がある中心的な場所でしたが上野戦争で焼失し、その跡地に造営された人工池には、明治10年(1877年)に西洋式噴水が整備されました。

旧寛永寺五重塔
寛永8年(1631年)に慈眼大師天海大僧正により建てられました。現在は上野動物園遊園地の敷地内にあり東京都が管理しています。

不忍池
慈眼大師天海大僧正は寛永寺を創建するにあたり、寛永寺を比叡山延暦寺に見立て、不忍池を琵琶湖に見立てたとされています。

上野大仏
寛永8年(1631年)に越後村上藩主・堀直寄による漆喰の釈迦如来坐像を始まりとし、関東大震災で首が落ちて戦争で胴体が徴用された仏像です。

天海僧正毛髪塔
寛永寺を創建した南海坊天海は、寛永20年(1643年)に子院の本覚院で没しました。慶安5年(1652年)に義海が天海僧正の毛髪を治めた宝塔を建立しました。

天王寺五重塔跡
寛永寺の末寺である天王寺には五重塔があり関東大震災や戦災でも健在でしたが、昭和23年(1945)に失火で焼失して礎石だけが残されています。
徳川将軍家と寛永寺
江戸幕府の祈願寺として創建された寛永寺は、4代将軍・徳川家綱の霊廟が造営されてから徳川将軍家の菩提寺としての役目も担いました。歴代将軍は徳川家康と家光を除いて寛永寺か増上寺に葬られ、寛永寺には5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の霊廟が造営されました。

上野東照宮
寛永4年(1627年)に日光まで参拝できない人たちのために東照宮が創建しました。本堂は3代将軍・徳川家光により、慶安4年(1651年)に建替えられました。

常憲院霊廟勅額門
5代将軍・徳川綱吉の霊廟の門で、霊廟は東京大空襲で大部分が焼失していますが、勅額門は延焼を免れて現在もその姿をとどめています。
輪王寺宮の下賜
創建時の元号を使用することを勅許された寛永寺は、第三代山主に後水尾天皇の第三皇子・守澄法親王を戴いてから歴代山主を皇室から迎えることになりました。朝廷より山主に対して輪王寺宮の称号が下賜し、比叡山延暦寺、日光山万願寺(現輪王寺)の山主を兼任したため、仏教界に君臨して江戸市民の誇りともなりました。
御隠殿跡
輪王寺宮は寛永寺本坊で公務を行い、寛永寺の麓に造営された御隠殿を休憩の場として使用しました。御隠殿の敷地は三千数百坪あり、老松の林に囲まれた池を持つ優雅な庭園あからは美しい月が眺められたと言われ、寛永寺と御隠殿を往復するために設けられた坂道は御隠殿坂として残されています。

御隠殿跡
寛永寺住職の輪王寺宮一品法親王の別邸で時折休憩で使用されていた屋敷です。月の名所でしたが、慶長2年(1869年)の上野戦争で焼失しました。

慈海僧正墓
天台宗の高僧である慈海僧正は、寛永寺の門主・輪王寺宮の名代を勤める東叡山凌雲院の4代学頭を務め、元禄6年(1693)に入寂しました。

石組水路
不忍池から流れる忍川が寛永寺表参道を横切り、三本の橋(三橋)が築かれていました。中央の一番太い橋は将軍や寛永寺住職の輪王寺宮だけが通行しました。

上野広小路
明暦3年(1657年)の明暦の大火で火除地の上野広小路(当時は下谷広小路)が置かれ、道沿いに並んだ料亭では不忍池の蓮を使う蓮飯が提供されました。
勧学寮の創設
了翁禅師は夢枕に現れた明の如定和尚から霊薬のつくり方を伝授され、錦袋円と名づけて上野の不忍池のそばに薬舗をかまえて販売しました。了翁禅師は集めた大蔵経のほか日本や中国の万巻の書を多くの人が利用できるように不忍池に経堂を造り、次いで上野寛永寺境内に学問所・勧学寮を造りました。

了翁禅師塔碑
了翁僧都は諸国を巡る途中で霊薬の処方を夢に見て修得して錦袋円と命名し、上野不忍池の池畔で薬屋を営みました。寛文12年(1672)に上野寛永寺境内に勧学寮を建立しました。
徳川慶喜の謹慎と江戸開城
慶応4年(1868年)に勃発した鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍は天皇の軍証である錦の御旗を賜りこれを掲げました。朝敵とされた幕府軍は戦意を喪失して敗れ、15代将軍徳川慶喜は寛永寺に謹慎して恭順の意を示しました。旧幕府派の人びとは渋沢成一郎を隊長、天野八郎を副隊長として彰義隊を結成して徳川慶喜を護衛したため、寛永寺は彰義隊は2千名が籠る反政府の拠点となりました。やがて江戸城が無血開城すると徳川慶喜は江戸を退去し、残された彰義隊は大義を失い分裂し、天野八郎が指揮する過激な集団と化しました。
彰義隊の結成
彰義隊は江戸庶民から人気が高く、新参の新政府軍よりも彰義隊を支援していました。寛永寺別当の覚王院義観は彰義隊の隊士に新政府への敵意を扇動し、彰義隊は新政府軍と小競合いを繰り返すようになりました。新政府軍の西郷隆盛と旧幕府軍の勝海舟は彰義隊の解散を試みますが失敗に終わり、このような状況を打開するため新政府軍は大村益次郎を江戸に派遣して彰義隊を殲滅することにしました。

山岡鉄舟墓
勝海舟や高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる山岡鉄舟は、勝海舟の密命を受けて新政府軍の陣営に乗り込み、慶応4年(1868年)の江戸城無血開城を実現させました。

徳川慶喜墓
最後の将軍・徳川慶喜は、晩年小石川で暮らし明治天皇から公爵を与えられた感謝から神式で葬儀を行い、皇族と同じような円墳の墓所にしました。
上野戦争
大村益次郎は新政府軍の中では孤立していましたが、大監察使として三条実美が到着すると後ろ盾を得て討伐作戦を推進していきます。新政府軍は奥羽越列藩同盟の討伐のため兵を派遣しており、彰義隊討伐に十分な兵を集める余裕はありませんでした。そこで薩摩の海江田信義は夜襲を提言しますが、大村益次郎は夜間の先頭の混乱で江戸の町が焼かれることを恐れ、白昼での戦闘を選択します。
寛永寺の焼失
上野戦争が開始すると、正面にあたる黒門口には薩摩藩や肥後藩、側面の清水門には肥前藩、備前藩、津藩、背面の谷中門には長州藩や大村藩が配置され、逃げ道を封鎖しないよう北東の根岸方面には兵が配置されませんでした。早朝に黒門口で戦闘が始まり一進一退の状況が続きましたが、午後に現在の東京大学付近の肥前軍がアームストロング砲で寛永寺を砲撃すると新政府軍が優勢に転じました。黒門口を突破した新政府軍は寛永寺境内に突入して乱戦になり、彰義隊は壊滅して北東の包囲されていない根岸方面から退却しました。

黒門口跡
新政府軍は彰義隊を殲滅するため寛永寺を攻撃し、黒門口で最も激しい戦闘となりました。黒門は荒川区の円通寺に移築されました。

彰義隊戦死者碑
徳川慶喜を警護し江戸市中の警備を目的として結成された彰義隊は、新政府軍の攻撃を受けて壊滅し、会津へと敗走していきました。
上野恩賜公園の造営
上野戦争の終結により江戸は完全に新政府の支配下となりましたが、上野戦争で寛永寺境内は焼け野原となりました。その跡地についてオランダ人医師のアントニウス・ボードウィンが、欧米では古戦場を公園にするとの進言がなされたため、旧寛永寺跡地に上野恩賜公園が整備されることになりました。

上野恩賜公園
明治政府は徳川将軍家ゆかりの寺院の衰退を目的として、土地を没収してオランダ人医師のアントニウス・ボードウィンの進言をうけて公園に整備しました。