歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

江戸下町の町人文化と学問

東京都台東区の上野恩賜公園

江戸幕府の台東区は江戸の下町にあたり、寛永寺が創建したことで大工や畳屋などの多くの職人が集まる場所となりました。町人たちは浮世絵などを娯楽として楽しみ、根岸などは文人や画人の別荘地として密かに愛されるようになりました。台東区の史跡・旧跡から江戸下町の町人文化と文人らが研究に励んだ学問を紐解いてみます。

国学・朱子学の研究

江戸幕府は主に朱子学を国学として統治しました。朱子学とは上下の身分秩序や忠孝と礼儀を尊ぶ学問で、支配者には都合がよく、士農工商も朱子学の身分秩序により位置づけられたとされます。朱子学は孔子が説いた儒教を基盤としており、孔子の説いた儒教に立ち戻る古学と対立することがありました。

東京都台東区の細井平洲墓

細井平洲墓

儒学者である細井平洲は私塾・嚶鳴館を開いて多くの人を指導し、米沢藩主・上杉鷹山に招かれて藩校興譲館の教学振興に努め、藩政改革の教学面を指導しました。

東京都台東区の安藤東野墓

安藤東野墓

荻生徂徠の最初の頃の弟子で柳沢吉保に仕えて詩文にすぐれた才能を発揮しましたが、享保4年(1719年)に37歳で没しました。

東京都台東区の太宰春台墓

太宰春台墓

太宰春台は荻生徂徠に師事して朱子学から古学に転じ、各藩で財政悪化が顕著となり貧富の格差拡大が深刻化する時代において、武士による藩営専売制度を提唱した経済禄を著しました。

東京都台東区の太田錦城墓

太田錦城墓

太田錦城は儒学者の学説を否定して独学で儒学を学ぶようになり、文化10年(1813年)に中国の査証学を取り入れた病間雑抄を著して我が国の考証学の先駆けとなりました。

東京都台東区の亀田鵬斎墓

亀田鵬斎墓

亀田鵬斎は江戸時代後期の儒学者で、山本北山とともに荻生徂徠の古文辞学を排撃して朱子学を批判したため、寛政異学の禁では異端の筆頭と目されました。

東京都台東区の塩谷宕陰墓

塩谷宕陰墓

塩谷宕陰は江戸時代後期の儒学者で、黒船来航に危機感を抱いて海防の急務を説き、芳野金陵、安井息軒と並んで安政・文久の三博士と称えられました。

国学の普及

江戸時代中期になると、国学と呼ばれる学問が盛んになりました。国学は外国からの影響を取り除いたところに日本人の本質があるとする学問で、古事記など古い書物を手掛かりとして研究がなされました。元禄年間の北村季吟は源氏物語などを研究して国学の基礎が作られ、これがのちに討幕への運動に影響を与えました。

東京都台東区の北村季吟墓

北村季吟墓

北村季吟は江戸時代前期の歌人・俳人で貞門派俳諧の新鋭と呼ばれました。元禄2年(1689年)に幕府歌学所に補せられて再昌院法印の称を受けました。

東京都台東区の戸田茂睡墓

戸田茂睡墓

戸田茂睡は江戸時代前期の歌学者で、古典の研究を行い公家の間に伝えられた伝統的な歌学が師の歌説に門弟が盲従することに反対して歌学の革新を主張しました。

東京都台東区の荷田在満墓

荷田在満墓

荷田春満の甥にあたる国学者・荷田在満は、享保年間に江戸で学問普及に努力し、元文3年(1738年)に幕府の命で大嘗会儀を記録して注釈を加えました。

東京都台東区の蒲生君平墓

蒲生君平墓

蒲生君平は荒廃した天皇陵を調査して、享和元年(1801年)に山陵志を完成させました。林子平や高山彦九郎とともに寛政の三奇人と呼ばれています。

蘭学など新しい学問

幕府が鎖国体制を築いて外国との交流を制限しましたが、享保5年(1720年)に8代将軍・徳川吉宗が禁書令を緩和してキリスト教以外の書物の輸入を認めました。オランダを通じて外国の書籍が輸入されるようになり、西洋の技術や文学を学ぶ蘭学が発達しました。

東京都台東区の旧躋寿館跡

旧躋寿館跡

明和2年(1765年)に幕府奥医師多紀元孝が漢方医の教育のために設立した躋寿館が始まりで、寛政3年(1791年)に幕府が医学館と改称しました。

東京都台東区の杉田玄白墓

杉田玄白墓

杉田玄白はオランダ外科医で、中川淳庵、桂川甫周、前野良沢と4年の歳月をかけてオランダの解剖書を翻訳し、解体新書を刊行しました。

東京都台東区の平賀源内墓

平賀源内墓

平賀源内は非常に好奇心旺盛で、新しい知識や技術を積極的に取り入れましたが、安永8年(1779年)に殺傷事件を起こして獄中で亡くなりました。

東京都台東区の伊東玄朴墓

伊東玄朴墓

伊東玄朴は長崎でシーボルトから蘭学・蘭医学を学び、嘉永2年(1849年)に我が国で初めて牛痘種法を成功させました。

町民に広まる文化

千利休に始まる茶の湯は、千利休の死後に利休七哲と呼ばれる武将や大名たちが活躍しました。江戸時代中期になると庶民に茶の湯が広まり遊びを楽しむ要素が強くなると、三千家は家元制度を敷いて体系化して茶の湯は習い事になりました。江戸時代後期になると高品質な煎茶の製法が確立して気軽に茶を楽しむようになりました。

庶民に広まる浮世絵

幕府が外国との接触を制限する鎖国政策をとると、国内では日本独自の文化が発展しました。平和な時代に生まれた日本独自の画風である浮世絵は、活版印刷技術を活用した多色刷りの絵画で、美人画や風景画など江戸時代の風俗をテーマにして広く庶民に広まりました。

東京都台東区の山田宗徧墓

山田宗徧墓

山田宗徧は江戸時代前期の茶人で、千宗旦に師事して宗旦四天王のひとりとなり、独自の茶風を確立して宗徧流茶道の開祖となりました。

東京都台東区の初代柄井川柳墓

初代柄井川柳墓

柄井川柳は川柳の点者で、宝暦7年(1757年)に前句付点者として寄句を集めるようになり、明治時代には川柳として定着しました。

東京都台東区の勝川春章墓

勝川春章墓

勝川春章は浮世絵師で、寛政4年(1792年)に没するまで美人画などを多く描いきました。葛飾北斎の師としても知られる勝川派の祖です。

東京都台東区の葛飾北斎墓

葛飾北斎墓

浮世絵師である葛飾北斎は、葛飾流の始祖とされます。風景画は歌川広重とともに称賛され、富嶽三十六景は特に有名です。

東京都台東区の石川雅望墓

石川雅望墓

国学者で著名な俳諧師である石川雅望は源注余滴や雅言集覧を著して、狂歌界を鹿津部真顔と二分する勢力を築いて狂歌四天王と呼ばれました。

東京都台東区の谷文晁墓

谷文晁墓

谷文晁は江戸時代後期の文人画家で、松平定信に従い諸国を巡歴して集古十種の挿絵を描くなど、水墨山水を得意としていました。

幕末の外国船来航

鎖国から開国へと揺れ動く時代において、伊能忠敬は天文学を学ぶため高橋至時に弟子入りしました。地図は国防上必要となるため、文化4年(1821年)に伊能忠敬は実測で日本全国の地図・大日本沿海輿地全図を完成させました。伊能忠敬は、文化15年(1818年)に地図の完成を見ることなく亡くなり、遺言により高橋至時の墓の隣に葬られました。

小笠原開拓

文禄2年(1593年)に小笠原定頼が発見したと伝説がある小笠原は、寛文10年(1670年)に紀州のミカン船が遠州灘で遭難して漂着したことで認識されるようになりました。海洋進出を推進しているイギリスの探検船ブロッサム号は、文政10年(1827年)に小笠原父島にたどり着いてイギリス領を宣言し、嘉永6年(1853年)にはペリーが自治政府を置きました。この事実を認識した幕府は、文久元年(1861年)に咸臨丸を派遣して小笠原の奪還にかかり、明治9年(1876年)に日本領となりました。

東京都台東区の高橋至時墓

高橋至時墓

高橋至時は暦学者で、寛政7年(1795年)に幕府の改暦の議で間重富とともに寛政歴を作り、伊能忠敬の実測地図作成では測量を指導し完成させました。

東京都台東区の伊能忠敬墓

伊能忠敬墓

伊能忠敬は寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで10回にわたり測量を行い、初めて実測による日本地図を完成させました。

東京都台東区の三島政行墓

三島政行墓

三島政行は、文政9年(1826年)に幕府の命により江戸府内の地誌である御府内風土記の編纂に従事して3年後に完成させました。

東京都台東区の斎藤長秋三代墓

斎藤長秋三代墓

斉藤長秋は3代にわたり江戸の地誌を調べ、天保7年(1836年)に江戸の風俗や行事、名所などをまとめた江戸名所図会を完成させました。

東京都台東区の小花作助墓

小花作助墓

小笠原諸島の開発者で、文久元年(1861年)に小笠原開拓御用として咸臨丸で渡航して島務にあたり、明治時代に小笠原島内務省出張所の初代所長となりました。

東京都台東区の阿部友之進墓

阿部友之進墓

本草学者である阿部友之進は、文久元年(1861年)に幕府が派遣した咸臨丸に乗船して小笠原の実地調査を行いました。