歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

西洋文化の流入と明治文化

東京都台東区の旧岩崎邸

近代化を目指す明治政府は西洋の進んだ文化を取り入れ、急速な近代化を進めました。これまでの伝統的な文化は西洋文化と融合して和洋折衷の明治文化が生まれました。ここでは台東区の史跡・旧跡から明治維新で西洋の文化が流入して影響を受けた文化や芸術の変化を探ります。

西洋美術の流入

急速な近代化を推し進める明治政府は、西洋文化を積極的に取り入れました。明治9年(1876年)には工部美術学校が設立され、明治洋画の基礎を築いたイタリア人フォンタネージら外国人教師が西洋美術を教授し、浅井忠ら明治美術会や黒田清輝らの白馬会が活動しました。

東京都台東区の菊池容斎墓

菊池容斎墓

江戸後期から明治初期の歴史人物画家で近代歴史画の祖と称され、明治8年(1875年)には明治天皇より日本画士の称号を受けました。

東京都台東区の旧朝倉文夫氏庭園

旧朝倉文夫氏庭園

朝倉文夫は明治〜昭和時代の彫刻家で、現在の朝倉彫塑館である住宅とアトリエの中庭には池泉鑑賞式庭園があります。(中庭は撮影禁止)

日本伝統美術の再考

急速な西洋美術の流入に伴い、日本の伝統的美術は衰退していきました。政府は西洋美術と伝統的日本美術の共栄を図り、明治20年(1887年)に東京藝術大学の前身となる東京美術学校をアメリカ人美術史家・フェノロサが設立しました。岡倉天心を中心に日本の伝統美術を見直そうとする動きにより、日本伝統美術の保護を目的として日本美術院が設立されました。

東京都台東区の狩野芳崖墓

狩野芳崖墓

伝統的な狩野派の画風に西洋の画法を取り入れて近代日本画の父と呼ばれました。東京芸術大学美術学部の前身・東京美術学校の創立にも尽力しています。

東京都台東区の岡倉天心宅跡・旧前期日本美術院跡

岡倉天心宅跡

日本近代美術の先駆者・岡倉天心は、明治31年(1898年)に日本美術院を創設し、横山大観などの画家を育てました。前期日本美術院跡地は岡倉天心記念公園があります。

東京都台東区の横山大観旧宅

横山大観旧宅

岡倉天心に学んだ横山大観は、岡倉天心とともに日本美術院創立に参画しました。日本美術院は活動が途絶えますが、大正2年(1913年)に日本美術院を再興しました。

東京都台東区の横山大観旧宅庭園

横山大観旧宅庭園

横山大観がデザインした庭園で、中央部に細長く折れ曲がる池泉が設けられて築山の前には細川護立侯爵から贈られた庭石が据えられます。

伝統芸術の革新

江戸時代に大衆娯楽として人気を博した落語は、三遊亭円朝が話術を極めて扇子一本だけで伝える素噺に特化し、落語を話芸の頂点とも言える存在に高めました。奈良~平安時代に貴族により親しまれた和歌や連歌は、江戸時代に松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶らが日常生活と重ね合わせた詩的表現として確立しました。明治時代の文明開化により俳諧連歌が廃れていくと、正岡子規は俳諧連歌に革新を起こし、俳句として独立したひとつの文芸として変化させました。

中村不折と漢字

明治28年(1895年)に日清戦争が起こると、中村不折は正岡子規とともに従軍記者として中国に渡りました。洋画家である中村不折は中国の文化財に触れ、美術そのものの性質は書も画も全く同一であるとして不折流の書を完成させました。中村不折の洋画を取り入れた挿絵は斬新なもので、新聞や本などの挿絵や装幀を任されるようになりました。

東京都台東区の三遊亭円朝墓

三遊亭円朝墓

幕末から明治時代の落語家で、怪談噺の牡丹燈籠、真景累ヶ淵や人情噺など数多くの作品を創作して近代落語の基礎を築きました。

東京都台東区の子規庵

子規庵

明治時代の俳人・正岡子規は、前田家下屋敷の御家人用二軒長屋を子規庵と称しました。病室兼書斎や句会歌会の場として俳句や短歌の革新に邁進しました。

東京都台東区の中村不折旧宅(書道博物館)

中村不折旧宅(書道博物館)

中村不折は明治時代から昭和初期の洋画家・書家で、昭和11年(1936年)に中国と日本の書道史研究上重要なコレクションを有する書道博物館を創設しました。

西洋建築の導入

イギリス人建築家・ジョサイア・コンドル博士は、日本に招かれて現東京大学で教鞭を執りながら鹿鳴館などを手掛けました。明治23年(1890年)に三菱財閥の顧問となり、三菱一号館や丸の内のオフィス街のほか岩崎邸を手掛けました。コンドル博士が育てた辰野金吾らは日本の近代建築を支えたため、コンドル博士は日本近代建築界の父と呼ばれました。

旧岩崎邸庭園

旧岩崎邸庭園は、明治29年(1896年)に築造された三菱財閥3代当主・岩崎久彌の邸宅です。越後高田藩榊原家の中屋敷が明治時代初期に旧舞鶴藩主・牧野弼成の邸宅になり、明治11年(1878年)に三菱財閥初代・岩崎弥太郎が土地を購入しました。

東京都台東区の旧岩崎邸洋館

旧岩崎邸洋館

英国人ジョサイア・コンドルが手掛けた地下室つき木造二階建の洋館で、明治時代の上層階級の邸宅として日本の木造建築に影響を与えました。

東京都台東区の旧岩崎邸和館

旧岩崎邸和館

洋館と結合された和館は550坪の敷地がありました。名棟梁・大河喜十郎が手掛けた書院造を基調とし、当時の純和風建築を垣間見ることができます。

東京都台東区の旧岩崎邸撞球室

旧岩崎邸撞球室

ジョサイア・コンドルが設計した撞球室(ビリヤード場)は、スイスの山小屋風の趣があり、校倉造りの外壁は素朴さを感じます。

東京都台東区の旧岩崎邸庭園

旧岩崎邸庭園

建造当初は多くの建物と庭園がありましたが、戦後に国の所有物になり敷地面積が3分の1に縮小され、建物は壊されて庭園が片隅に残されています。

博覧会の開催

上野恩賜公園では明治10年(1877年)の第1回内国勧業博覧会を皮切りに合計3回行われ明治政府の近代化を宣伝しました。また明治40年(1907年)には東京府の主催で東京勧業博覧会が上野恩賜公園で開催され、大正3年(1914年)の東京大正勧業博覧会では不忍池から上野公園まで日本初のエスカレータが設置されました。

博物館の宝庫

明治6年(1873年)に寛永寺の敷地が明治政府に抑えられ、日本最初の公園である上野恩賜公園となりました。明治10年(1877年)に第1回内国勧業博覧会を開催し、合計3回の博覧会を行い明治日本の近代化が宣伝されました。上野には国立博物館や国立科学博物館し、世界遺産に登録された国立西洋美術館などが集積していきました。

東京都台東区の東京国立博物館

東京国立博物館

明治5年(1872年)に創設された日本最古かつ最大の博物館で、明治14年(1881年)にコンドル設計により上野公園内に本館が完成しました。

東京都台東区の国立科学博物館

国立科学博物館

明治10年(1877年)に国立科学博物館の前身とされる教育博物館が創設され、昭和7年(1932年)に現在地に移転されました。

東京都台東区の国立西洋美術館

国立西洋美術館

昭和34年(1959年)にル・コルビュジエが設立した西洋美術館で、第二次大戦末期にフランス政府が差し押さえた松方幸次郎のコレクションが展示されました。