歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

鎌倉幕府の成立と衰退

神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮

我が国で初めて武家政権を樹立した鎌倉幕府は、源氏の棟梁である源頼朝が開きました。源氏による将軍職は3代で途絶えますが、北条氏が執権として政治を司りました。初めて外敵に侵攻される蒙古襲来により国難が訪れ、これを遠因として鎌倉幕府は衰退、滅亡へと向かいました。

源氏と鶴岡八幡宮

平安時代後期の鎌倉は、桓武平氏の祖高望王の孫である平直方が治めていました。平直方は長元元年(1028年)に起きた平忠常の乱を鎮圧できず、代わりに討伐軍大将に任ぜられた源頼信が乱を鎮圧しました。この恩賞により源頼信の子源義家が相模を与えられました

鶴岡八幡宮

。源頼義は康平6年(1063年)に京都石清水八幡宮から源氏の氏神を由比郷鶴岡に勧請して鶴岡八幡宮を創建しました。源氏再興のため挙兵した源頼朝は、治承4年(1180年)に由比若宮を現在の地に遷して鶴岡八幡宮新宮若宮とし、富士川の戦いで平家を破ると鎌倉大蔵(雪ノ下)の屋敷に入りました。

神奈川県鎌倉市の若宮大路と段葛

若宮大路と段葛

鶴岡八幡宮新宮若宮は建久2年(1191年)に火災で焼失しますが、源頼朝は若宮を再建するとともに大臣山の中腹に上宮(本宮)を新造して現在の姿になりました。

神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮境内

鶴岡八幡宮境内

鶴岡八幡宮は武門の神として、後の権力者となる足利氏や徳川氏などから篤く庇護され、源頼朝が奉納した流鏑馬神事は現在も続けられています。

鎌倉幕府の成立

平家を討伐した源義経は、平家の棟梁である平宗盛を鎌倉に連行しました。源義経と不仲の梶原景時は、源頼朝に源義経を鎌倉に入れないように進言し、源頼朝は源義経に対して刺客を送りました。命を狙われた源義経は後白河法皇から源頼朝討伐の院宣をもらい挙兵しますが、源頼朝は後白河法皇から全国に守護・地頭を置いて源義経を討伐することを認めさせました。

源義経と奥州藤原氏の討伐

源義経は各地を転々としたあと、幼少期を過ごした奥州藤原氏に身を潜めることにしました。藤原秀衡は源義経を快く迎え入れましたが、藤原秀衡の跡を継いだ藤原泰衡は源頼朝の圧力に屈して源義経を殺害しました。源頼朝はこれを好機ととらえ、奥州に兵を向けて奥州藤原氏を滅亡に追い込みました。

神奈川県鎌倉市の源義朝像

源義朝像

建久3年(1192年)に征夷大将軍に任命されました。源頼朝は交通の要衝で山と海に囲まれた天然の要害である鎌倉を拠点に幕府を成立させました。

神奈川県鎌倉市の明月院境内

明月院境内

平治の乱で戦死した首藤俊通の供養します。

神奈川県鎌倉市の浄妙寺境内

浄妙寺境内

文治4年(1188年)に足利義兼が創建しました。

神奈川県鎌倉市の永福寺跡

永福寺跡

建久5年(1194年)には源義経や藤原泰衡など奥州攻めで犠牲となる武将たちの鎮魂のため永福寺が建立されました。

源氏による政治の終わり

源頼朝の死により、北条時政や比企能員などの御家人に政治の実権が移り、次第に北条時政と比企能員が激しく争うようになりました。北条時政は比企氏一族を滅ぼし、将軍源頼家は修禅寺に幽閉され妻と子一幡は殺害されました。将軍の座には北条時政が後見人を務めていた源実朝が就任し、北条氏が執権として政治を掌握するようになりました。

神奈川県鎌倉市の法華堂跡(源頼朝墓)

法華堂跡(源頼朝墓)

鎌倉幕府を開いた2年後の建久9年(1198年)に源頼朝が亡くなり源頼家が跡を継ぎますが、政治は有力御家人十三人の合議制で政治が行われるようになりました。

神奈川県鎌倉市の寿福寺

寿福寺

源義朝の旧邸跡に北条政子が創建しました。源頼朝の跡を継いだ源頼家は修禅寺で北条時政に暗殺され、源頼家の子公暁の復讐で源実朝が暗殺されて北条氏が実権を握りました。

神奈川県鎌倉市の寿福寺(北条政子・源実朝墓)

寿福寺(北条政子・源実朝墓)

北条政子と源実朝の墓が並びます。源実朝には子がおらず源氏による将軍家は途絶え、形式的に摂関家の三寅(藤原頼経)が2歳で将軍となりました。

神奈川県鎌倉市の法華堂跡(北条義時墓)

法華堂跡(北条義時墓)

鎌倉幕府の実権は2代執権北条義時と北条政子が握りますが、こうした混乱に乗じて後鳥羽上皇は討幕のため挙兵して承久の乱が起きました。

承久の乱と執権政治

承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が討幕のため挙兵して承久の乱が起こると、源頼朝の妻である北条政子は御家人を奮い立たせて朝廷軍を打ち破りました。幕府は京都に六波羅探題を設置して朝廷を監視し、支配領域を東国から全国へと広げました。こうして鎌倉は日本の政治、外交、文化の中心となりました。

神奈川県鎌倉市の名越切通

名越切通

三方を山に囲まれて人や物資の往来に不便なため、山を切り開いて鎌倉と三浦半島とを結ぶ切通を造営しました。

神奈川県鎌倉市の亀ヶ谷坂

亀ヶ谷坂

仁治元年(1240年)に北条泰時が造営した切通です。主要な七つの切通は鎌倉七口と呼ばれ、防衛上重要な街道となりました。

神奈川県鎌倉市の和賀江嶋

和賀江嶋

3代執権北条泰時は御成敗式目を制定して御家人を統制したほか、中国宋と交易を行うため我が国最古の築港遺跡となる和賀江嶋を築港しました。

神奈川県鎌倉市の大町釈迦堂口遺跡

大町釈迦堂口遺跡

中国宋との交流で新しい仏教や学問や芸術が伝わり、北条泰時は元仁元年(1224年)に釈迦堂口切通に釈迦堂を建てたとされています。

神奈川県鎌倉市の建長寺境内

建長寺境内

5代執権北条時頼が建長5年(1253年)に南宋の禅僧蘭渓道隆を招いて罪人を処刑していた地獄谷に創建した寺院で、建長汁が生まれた寺としても知られます。

神奈川県鎌倉市の建長寺庭園

建長寺庭園

蘭渓道隆・夢窓疎石の作庭と言われます。

神奈川県鎌倉市の浄智寺境内

浄智寺境内

5代執権北条時頼が子の北条宗政の菩提を弔うため、弘安4年(1281年)に創建しました。

神奈川県鎌倉市の極楽寺境内・忍性墓

極楽寺境内・忍性墓

6代執権北条重時が極楽浄土を顕現するために発願した寺院建立は子の北条長時に引き継がれて、文永4年(1267年)に忍性を迎えて開山しました。

神奈川県鎌倉市の浄光明寺

浄光明寺

6代執権北条長時が建長3年(1251年)に創建しました。藤ガ谷に住んで藤谷殿や藤谷黄門と呼ばれた冷泉為相が葬られています。

神奈川県鎌倉市の浄光明寺境内・冷泉為相墓

浄光明寺境内・冷泉為相墓

冷泉為相は、9代執権北条貞時や将軍久明親王が主催する歌会に出席して武士達に和歌連歌を教授して鎌倉歌壇を隆盛に導きました。

蒙古襲来

文永5年(1268年)に北条時宗が執権となると、南宋から招いていた大休正念の意見を取り入れて元からの国書を無視し続けました。痺れを切らしたクビライは、文永11年(1274年)に元と高麗の連合軍を日本に送り文永の役が起こりました。元と高麗の軍勢は対馬や壱岐を襲いながら博多に進軍し、博多で激しい戦いとなりました。外敵との戦闘経験が無い日本の武士は、集団戦法の元軍に苦戦して博多は制圧されました。しかし、元軍は突然撤退して翌朝には姿を消しました。

弘安の役と神風

クビライは引き続き国交を求める国書を日本に送りましたが、幕府は使者を悉く処刑して博多に防塁を築いて元の侵攻に備えました。弘安4年(1281年)に再び元軍が侵攻すると、武士たちは防塁で敵の上陸を阻みつつ夜襲やゲリラ戦で反撃しました。元軍は上陸の準備のため肥前国鷹島に仮泊しますが、暴風雨で船が沈没して壊滅状態となり、島に逃げ延びた残兵も悉く討ち取られました。

神奈川県鎌倉市の大仏切通

大仏切通

極楽寺が造営された極楽寺地区と大仏切通を結ぶ交通路は、京都と鎌倉を往来するうえで重要な場所でした。

神奈川県鎌倉市の一升桝遺跡

一升桝遺跡

大仏切通の通行を監視、防衛するため築かれた堀切を伴い土塁で囲まれた方形桝形の城で、北条氏は寺院と協力しながら交通路を支配しました。

神奈川県鎌倉市の北条氏常盤亭跡

北条氏常盤亭跡

7代執権北条正村が居宅としており、文永3年(1266年)に中国元のクビライから臣従を促す国書が届くと、鎌倉幕府は対応を朝廷と協議しました。

神奈川県鎌倉市の百八やぐら(覚園寺)

百八やぐら(覚園寺)

永仁4年(1296年)に9代執権北条貞時が心慧上人を開山として覚園寺を創建し、元寇を退ける祈祷が行われました。

神奈川県鎌倉市の円覚寺

円覚寺

北条時宗は、文永の役と弘安の役の2度の戦いで討死した両軍の兵を弔うため、弘安5年(1282年)に中国宋の高僧無学祖元を迎えました。

神奈川県鎌倉市の円覚寺(佛日庵)

円覚寺(佛日庵)

北条時宗の廟所になります。北条時宗は元寇に対処しましたが、自国を守る蒙古襲来で恩賞を与えることができず、鎌倉幕府の基盤が揺るぎました。

鎌倉幕府の滅亡

武士の活躍で元寇を防いだものの、自国防衛の戦いでは与える恩賞がありませんでした。武士の中には借金をして参戦したものも多く、生活に苦しんだ武士は土地を売る者も出ました。幕府は救済措置として徳政令を発布して武士の借金を債務免除しましたが、借金を帳消しされた商人たちは武士への融資を止めました。武士は不満を持ち、政治が混乱を極めた弘安8年(1285年)には、9代執権北条貞時の側近平頼綱が安達泰盛を討伐する霜月騒動が起こり幕府内部でも崩壊が進みました。

新田義貞の鎌倉制圧

後醍醐天皇は天皇親政を掲げて2度にわたり討幕を企てますが、2度目の計画も幕府に密告されて失敗しましたが、こうした討幕の流れは各地に広がり、元弘3年(1333年)に新田義貞が挙兵して分倍河原の戦いで幕府軍を破り、やがて鎌倉も制圧されて鎌倉幕府は滅亡しました。

神奈川県鎌倉市の日野俊基墓

日野俊基墓

元徳3年/元弘元年(1331年)に後醍醐天皇は隠岐島に流罪となり、日野俊基は鎌倉に送られる途中の化粧坂上にある葛原ヶ岡で処刑されました。

神奈川県鎌倉市の仮粧坂切通

仮粧坂切通

鎌倉攻めで激戦となりましたが、新田義貞はここを突破できず稲村ヶ崎から鎌倉中に攻めることになりました。

神奈川県鎌倉市の稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)

稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)

鎌倉に迫る新田義貞は、軍を二手に分けて山側と海側から鎌倉を挟み撃ちにする作戦を取り、新田義貞は稲村ヶ崎の海岸から鎌倉に入ることにしました。

神奈川県鎌倉市の仏法寺跡

仏法寺跡

北条氏の支援のもとで陸上・海上交通を支配した極楽寺の有力末寺の寺院跡で、鎌倉攻めで新田義貞が拠点としての激戦地となりました。

神奈川県鎌倉市の巨福呂坂

巨福呂坂

鎌倉侵攻が開始されてしばらくは幕府軍は持ちこたえましたが、堀口貞満を大将とする軍が巨福呂坂を破り鎌倉市内に乱入すると勝負は決定的となりました。

神奈川県鎌倉市の東勝寺跡(腹切りやぐら)

東勝寺跡(腹切りやぐら)

14代執権北条高時は北条氏の菩提寺である東勝寺に退き、北条一族や家臣らとともに自害して果て鎌倉幕府は滅亡しました。