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歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

鎌倉市

神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮

鎌倉市は神奈川県南部で三浦半島の付け根にに位置します。北部を丘陵地に囲まれ、南が海に面する天然の要害であり鎌倉幕府が開かれて武家政治の発祥の地となりました。多くの神社仏閣などの歴史的遺産や海、山などの豊かな自然環境に恵まれた都市です。

概要

面積
39.67km2
人口
172,777人(2021年11月1日)
市の木
ヤマザクラ
市の花
リンドウ
地図

特集

神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮

鎌倉幕府の成立と衰退

我が国で初めて成立した武家政権は、3代で源氏の将軍職が途絶えて北条氏が執権として取り仕切りましたが、初めて外敵に侵攻される蒙古襲来を遠因として滅亡しました。

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歴史

鎌倉市は旧石器時代から人の生活の痕跡が残されています。鎌倉別と呼ばれる高貴な人たちが豪族となり、平安時代から武士が統治するようになりました。鎌倉時代に源頼朝が鎌倉幕府を開き、室町時代にも鎌倉公方が置かれて発展しましたが、鎌倉公方が追われてから閑静な半農半漁の村となりました。江戸時代に江戸の町人が観光に訪れるようになり、現在においてもたくさんの観光客が訪れています。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

鎌倉には今から1万年ほど前から人びとが生活を始めたと考えられています。海から離れた台地で生活し、常楽寺裏手の粟船山で旧石器時代の石器が発掘されており、葛原ケ岡からは縄文時代早期の土器が発掘されています。弥生時代になると農耕の地を求めて山を下り、由比ヶ浜のあたりまで集落が広がり鶴岡八幡宮境内などからは弥生時代の土器が発見されています。

古墳時代、飛鳥時代

鎌倉別と呼ばれる豪族が支配するようになり、海に面する鎌倉を活用して海洋交易を行うようになりました。鎌倉別の一族は山に囲まれる地形から、崖に穴を掘る鎌倉型横穴墓を造営して先祖を埋葬しました。このため、墳丘を持つ古墳は向原古墳群に限られています。

奈良時代、平安時代

房総半島から三浦半島を横断して畿内に向かう交通の要衝となり、平安時代末期に源頼信の子源頼義が治めるようになりました。源頼義は京都の石清水八幡宮から源氏の氏神を勧請し、康平6年(1063年)に鶴岡八幡宮(元八幡)の社殿を造営しました。

神奈川県鎌倉市の長谷寺

長谷寺

奈良時代になると鎌倉郡衙が置かれ、長谷寺などの寺院も創建されて行政の中心となりました。

神奈川県鎌倉市の荏柄天神社境内

荏柄天神社

菅原道真が天上から降臨したことで長治元年(1104年)に創建しました。福岡県の太宰府天満宮、京都府の北野天満宮とともに日本三古天神に数えられます。

鎌倉時代、南北朝時代

源平合戦で平家を滅ぼした源頼朝は、征夷大将軍に任ぜられ鎌倉に幕府を開きました。日本で初めて武士による政治が始まり、江戸時代まで続く武家政権の基盤が作られました。源氏による将軍家は3代で途絶えて、源頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏が実権を握りました。

蒙古襲来と鎌倉幕府の滅亡

文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)に蒙古が襲来して元寇が起きました。この元寇を遠因として幕府内でも政治的腐敗が進み、元弘3年(1333年)に新田義貞が鎌倉に侵攻して鎌倉幕府は滅亡しました。後醍醐天皇の皇子護良親王は天皇家中心の政治を望みましたが、足利尊氏と対立して鎌倉東光寺に幽閉されました。

神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮

源氏の氏神が祀られている神社です。源頼朝は幕府の組織を整えて全国を支配し、鎌倉は政治、軍事、外交、文化などあらゆる面で日本の中心地となりました。

神奈川県鎌倉市の鎌倉宮

鎌倉宮

明治天皇が造営した護良親王を祀る神社です。護良親王が北条氏残党と組んで反乱を起こすことを恐れた足利尊氏の弟足利直義は淵辺義博に命じて護良親王を殺害しました。

室町時代、安土桃山時代

鎌倉幕府が滅亡して武士の間で権力争いが続き、足利尊氏が京都に室町幕府を開きました。鎌倉には足利尊氏の子足利義詮が統治し、鎌倉はそれなりのにぎわいは保たれました。足利義詮が帰京すると同時に弟の足利基氏が鎌倉公方となり、東国10か国を支配する鎌倉府が成立しました。

鎌倉公方と関東管領

将軍家と同等の権力を持つ鎌倉公方は、やがて鎌倉府は室町幕府と対立するようになりました。4代鎌倉公方足利持氏は将軍位を望むようになり、将軍家から討伐されて自害しました。鎌倉公方には遺児の足利成氏が就任しましたが、関東管領上杉憲忠を誅殺して享徳の乱となりました。鎌倉公方と関東管領は関東各地で戦いとなり、駿河守護今川範忠が派遣されると康生元年(1455年)に足利成氏は下総国古河に逃げ古河公方と名乗るようになりました。こうして鎌倉は急速に活気を失い、農業と漁業の村になりました。

神奈川県鎌倉市の瑞泉寺庭園

瑞泉寺庭園

嘉暦2年(1327年)に夢窓疎石により創建した瑞泉寺に足利基氏が葬られてから鎌倉公方の菩提寺となりました。

神奈川県鎌倉市の伝上杉憲方墓

伝上杉憲方墓

3代鎌倉公方の足利氏満を関東管領として補佐し、康暦元年(1379年)の土岐一族の反乱や翌年の小山義政の乱の鎮圧などで功を挙げ、山内上杉氏の祖となりました。

江戸時代

江戸時代に入ると社寺は復興していき、鎌倉は参拝客が訪れる半農半漁の門前町となりました。

神奈川県鎌倉市の相模湾沿岸

相模湾沿岸

徳川光圀が編纂した新編鎌倉志に鎌倉が紹介されたことで、江の島の景色とともに史跡めぐりを楽しむ江戸の町人も増えていきました。

神奈川県鎌倉市の鎌倉大仏殿跡

鎌倉大仏殿跡

寛元元年(1243年)に鋳造され当初は金箔に包まれて大仏殿に納められましたが、強風や大地震で何度も倒壊して建長4年(1252年)から露坐大仏となりました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治22年(1889年)に横須賀線が開通すると、鎌倉は別荘地や住宅地として注目されるようになりました。昭和になると作家や文人たちが移り住み、鎌倉文士という言葉が生まれました。鎌倉は太平洋戦争の戦争の被害をほとんど受けず歴史的建造物が残されたため、多くの人が訪れる観光地となりました。