歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

甲府市

山梨県甲府市の武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)

甲府市は、山梨県のほぼ中央にあり細長い形をしています。武田家が館を構えたことから甲斐国の府中という意味で命名されました。中心の甲府盆地には荒川が流れ、その上流には豊かな自然に恵まれる御岳昇仙峡や芦川渓谷が広がります。

概要

面積
212.47km2
人口
188,838人(2021年11月1日)
市の木
カシ
市の花
ナデシコ
市の鳥
カワセミ
地図

歴史

武田信玄の父である武田信虎が守護所を石和から移して城下町を整備し、甲斐国の府中から甲府と呼ばれるようになりました。武田氏が滅亡すると豊臣秀吉の命で甲府城が築かれ、甲州街道の整備による人の往来の活発化に伴い、甲府城下町として発展しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

八ケ岳北麓に本州最大の黒曜石原産地があり、曽根丘陵の立石遺跡からナイフ形石器が出土しています。弥生時代中期に甲府盆地の開拓が進み集落が形成されていきました。

山梨県甲府市の上の平遺跡の方形周溝墓群

上の平遺跡の方形周溝墓群

曽根丘陵のほぼ中央部にある方形周溝墓群で、弥生時代後期後半から古墳時代前期初頭にかけて造営されました。

古墳時代、飛鳥時代

曽根丘陵を中心に方形周溝墓が造営されてきましたが、4世紀から大和王権の影響を強く受けた豪族が前方後円墳を造営するようになりました。

山梨県甲府市の大丸山古墳

大丸山古墳

曽根丘陵東山にある4世紀中ごろの前方後円墳で、組合式石棺と竪穴式石室からは全国的にも珍しい鉄製の甲や手斧、石棺からは石枕などが発掘されました。

山梨県甲府市の銚子塚古墳附丸山塚古墳

銚子塚古墳附丸山塚古墳

4世紀後半の東日本最大級の前方後円墳で、青銅鏡をはじめ勾玉、管玉、鉄剣、鉄刀などが出土し墳丘には埴輪も並べられていました。

山梨県甲府市の万寿森古墳

万寿森古墳

6世紀前半の円墳で、山梨県内で3番目に大きな横穴石室は江戸時代に火薬庫として使われました。古墳の周濠からは須恵器の破片が出土しました。

山梨県甲府市の加牟那塚

加牟那塚

北部山岳地帯にある6世紀後半の円墳で、県内で2番目の規模の横穴式石室があり古墳の周囲から円筒埴輪や形象埴輪などが見つかりました。

奈良時代、平安時代

平安時代末期に武田信義が甲斐源氏を統率して甲斐の支配を固め、その子一条忠頼と板垣兼信が甲府市内に館を構えました。源頼朝が平家討伐で挙兵すると、武田信義ら甲斐源氏も出兵して鎌倉幕府の創設に寄与しました。

鎌倉時代、南北朝時代

鎌倉まで鎌倉街道が整備されていたため、鎌倉仏教が早くから流入しました。建長寺を開いた蘭渓道隆が甲斐国に配流されて東光寺を開き、臨済宗の夢窓疎石が恵林寺を開山しました。

山梨県甲府市の東光寺庭園

東光寺庭園

甲斐国に追放された鎌倉時代を代表する禅僧・蘭溪道隆が東光寺を開山し、広くて大きめの池泉鑑賞式庭園を作庭しました。

山梨県甲府市の恵林寺庭園

恵林寺庭園

甲斐牧ノ庄の地頭を務めていた二階堂出羽守貞藤が夢窓疎石を招いて、元徳2年(1330年)に作庭されました。

室町時代、安土桃山時代

甲斐守護職を継いだ武田信虎は反旗を翻す有力土豪を制圧すると、永正16年(1519年)に躑躅ヶ崎館を築いて城下町を建設して甲斐国の府中から甲府と呼ばれるようになりました。天文10年(1541年)に武田晴信(のちの武田信玄)が武田信虎を駿河に追放して甲斐守護職を継ぐと、天文16年(1547年)に甲州法度之次第を定めました。天正元年(1573年)に武田勝頼が家督を継ぎますが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで馬場信春、山県昌景、内藤昌豊ら有力家臣を失い、天正10年(1582年)に武田家が滅亡しました。

山梨県甲府市の武田氏館跡(現武田神社)

武田氏館跡(現武田神社)

武田信虎、信玄、勝頼の3代が城主を務めた日本最大級の戦国大名居館跡で、大正8年(1919年)に武田神社が創建しました。

山梨県甲府市の要害山

要害山

永正17年(1520年)に武田信虎が躑躅ヶ崎館の後詰として要害山城を築城し、大永元年(1521年)に武田信玄が生まれた場所でもあります。

山梨県甲府市の武田信虎の墓

武田信虎の墓

甲斐国を統一して躑躅が崎の地へ居館を移し、家臣を集住させるとともに商職人町の設定や寺社の創建、市場の開設などを進めて甲府の基礎を築きました。

山梨県甲府市の武田晴信室三条氏墓

武田晴信室三条氏墓

武田信玄の正室・三条の方は左大臣・三条公頼の娘で、武田義信らを生みました。武田信玄が墓所を石和町から現在地に移して法号から円光院としました。

江戸時代

徳川家康は江戸を起点とした主要幹線道路として五街道のひとつ甲州街道を整備しました。甲府城主は徳川家一門に限られていましたが、徳川綱吉の側近柳沢吉保が甲府城主となり、父子二代にわたり城下町の整備が進められました。享保9年(1724年)に柳沢氏が大和郡山に移封されると、甲斐は幕府の直轄地となり甲府城には勤番支配が置かれました。

山梨県甲府市の甲府城跡

甲府城跡

豊臣秀吉の命により築城が始まり浅野長政・幸長父子が完成させ、寛文元年(1661年)に徳川綱重とその子徳川綱豊が甲府藩を立藩しました。

山梨県甲府市の御嶽昇仙峡

御嶽昇仙峡

荒川上流に位置する渓谷で、天保14年(1843年)に長田円右衛門が人馬が安心して通ることができるように御嶽新道を切り開きました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県により山梨県となり、明治22年(1889年)に甲府市が誕生しました。明治36年(1903年)に鉄道が敷設されて中央線が開通し、難所の笹子峠を越えて人や物資の輸送が円滑になりました。昭和20年(1945年)の空襲で市街の7割以上が焦土と化しましたが、昭和57年(1982年)に勝沼ー甲府間の高速道路が開通して中央道が全線開通するなど復興を果たしました。