近代登山へ変化した霊山

古くから山を崇拝してきた人びとは、仏教の伝来とともに神仏を融合させていきました。僧や行者は静寂の地を求めて山で修行を行い、山の霊力を身に付ける修験道を確立しました。明治時代に欧米から技術者が訪れるようになると、日本アルプスの山は信仰の対象からレジャーへと変化していきました。
山岳信仰の起こり
縄文時代に狩猟採集していた人びとは、山に対して感謝と畏敬の念から山を神として崇拝してきました。山の信仰は仏教と融合し、仏教徒たちは静寂の地である山で修行するようになりました。僧や行者は前人未到の山に登拝し祭祀や祈禱で霊地とし、修験道の開祖とされる役小角は葛木山で鬼神を呪術で使役したとされます。鎌倉時代以降は山岳修行を体系化した修験道が成立し、山の霊力を身に付けて里で加持祈祷を行い効験を現す信仰となりました。

役小角
7~8世紀に奈良を中心に活動していた修験道の開祖で、役行者や神変大菩薩などと呼ばれます。吉野金峰山や大峰山などを開山しましたが誣告により伊豆大島に流されました。
乗鞍岳
飛騨山脈南部に位置する乗鞍岳は、飛騨地域と信州にまたがる3千メートルの剣が峰を主峰とする山塊です。山容が馬の鞍に似ていることから、江戸時代に乗鞍岳の名が定着しました。飛騨側から乗鞍岳山頂から登る太陽の姿が信仰の対象となり、信州側でも一番早く朝日があたる山として朝日岳と呼ばれたことから、木曽義仲が自称した旭将軍の由来ともなりました。
乗鞍信仰
乗鞍岳は古くは位山と呼ばれ、乗鞍岳全体を御神体として仰がれていました。やがて修験者たちが修行の場として乗鞍岳に登拝するようになり、飛騨側では乗鞍大権現・信州側に朝日権現神社が祀られて神仏習合の信仰が広まりました。権現池など山上の湖は農業に欠かせない水の神として雨乞いの場になり、江戸時代には円空上人や木喰上人が山籠りして修行を重ねました。
乗鞍スカイライン
アメリカとの開戦が濃厚になり航空機のエンジン試験場が急務となる陸軍は、昭和16年(1941年)に高地実験所を建設するために乗鞍岳の畳平まで軍用道路の整備を始めました。突貫工事で進められた軍用道路は翌年に完成し、戦後の昭和23年(1948年)に日本最高所を走る登山自動車道路に転用されました。多くの登山者を運んだ悪路は高度経済成長や観光ブームの到来により、昭和48年(1969年)に日本の最高所に位置する道路として乗鞍スカイラインが開通しました。

乗鞍岳畳平
青い水の亀ヶ池を恵比須岳や魔王岳が取り囲む地形をしており、乗鞍岳全体が御神体とされています。高山植物の宝庫として天空のお花畑と呼ばれています。

権現池
標高2840メートルにある剣ヶ峰直下の古い火口湖で、乗鞍岳が水神である梓水神がおわす山であるため、雨乞いの祭事が行われました。

三本滝
番所大滝、善五郎の滝とともに乗鞍三滝と呼ばれ、乗鞍信仰の修験者の行場として利用されていたといわれています。
美ヶ原高原
2034メートルの王ヶ頭を最高峰とする美ヶ原高原は、朝廷専用の牧場である勅旨牧が置かれていました。江戸時代になると山岳信仰の御嶽教の信仰の対象となり、王ヶ頭や王ヶ鼻には祠が祀られて御嶽信仰の講社に集う人びとが王ヶ鼻から遙かに望む御嶽の姿に手を合わせる習慣が生まれました。
ビーナスラインと自然保護運動
昭和41年(1966年)に中信高原スカイライン計画が議会で可決して着工しますが、自然保護団体などの反対運動が活発化しました。反対派との議論により美ヶ原の尾根筋と台上を通過しないルートで工事が再開され、昭和56年(1981年)にビーナスラインが全線開通しました。

王ヶ頭
美ヶ原高原の最高峰であり御嶽教の山岳信仰の対象とされてきました。御嶽教の祠が祀られており御嶽信仰の講社に集う人びとが御嶽山に手を合わせる風習がありました。

山本俊一
昭和時代に美ヶ原で初めての山小屋となる山本小屋を開いて登山道を整備した功労者で、美ヶ原にある美しの塔には山本氏の金の入れ歯が埋葬されています。
播隆上人と槍ヶ岳
江戸時代後期の富山の僧侶・播隆上人は、浄土宗の僧侶となり諸国巡錫修行ののち各地の山で念仏修行を行いました。文政11年(1828年)に上高地周辺の山に初めて登り槍ヶ岳に登頂すると、里の念仏講の人びとと鉄鎖を整備して槍ヶ岳山頂へと導きました。

播隆上人
越中国に生まれた僧侶で、飛騨山脈の霊峰・笠ヶ岳から眺めた槍ヶ岳の霊感に打たれ、衆生済度のため槍ヶ岳に鉄鎖を整備するなどして開山しました。

槍ヶ岳
播隆上人が開山した標高3180メートルの北アルプス第二の高峰で、天を突き刺すような鋭い山頂から日本のマッターホルンとも称されます。
近代登山の始まり
明治時代になり明治政府は近代化を進めるために、多くの外国人技師を雇うようになりました。英国の冶金技師ウィリアム・ガウランドは熱心な登山家であり、明治10年(1877年)に槍ヶ岳に登りその記録を雑誌で紹介しました。このときに日本アルプスと表現したことで日本アルプスの名称が定着しました。
日本近代登山の父・ウェストン
明治25年(1892年)に英国人宣教師のウォルター・ウェストンが槍ヶ岳に登り、翌年には嘉門次を案内に前穂高岳に上りました。ウェストンは明治29年(1896年)に日本アルプス登山と探検を出版し、上高地や穂高連峰などを世界に紹介しました。これにより登山がレジャーとして知られるようになり、ウェストンは日本近代登山の父として称えられることになります。
観光地となる上高地
大正4年(1915年)に焼岳が大爆発を起こし、流れ出た土石流が梓川をせき止めて大正池が形成しました。大正5年(1916年)には東久邇宮殿下が槍ヶ岳に登るために、島々から徳本峠、明神までの登山道が整備されました。上高地は観光地として知られるようになり、昭和8年(1933年)に上高地ホテルが開業しました。

上高地
日本近代登山の父ウェストンが絶賛して知られるようになり、初の山岳リゾートホテルである上高地帝国ホテルが開業し、山岳リゾート地として発展していきました。

大正池
焼岳大噴火により梓川が堰き止められて出現した池で、水没した樹木が立ち枯れとなりエメラルドグリーンの湖面に映る姿は神秘的な景観を生みだしています。