静岡市

静岡市は人口約70万人の政令指定都市です。戦国時代には今川氏や徳川氏が治める城下町として、東海道の宿場町として栄えました。特産品として駿河湾を臨む海岸線にはいちご畑が広がり、もも、ねぎなどの農産物やシラスをはじめとする海産物なども有名です。
概要
- 面積
- 1,411.90km2
- 人口
- 681,933人(2023年1月1日)
- 市の木
- ハナミズキ
- 市の花
- タチアオイ
- 市の鳥
- カワセミ
- 地図
歴史
静岡市は駿河国の国府が置かれたことから駿河と呼ばれ、徳川家康が築城した駿府城を中心として東海道の宿場町として発展しました。駿府城は徳川家康が改修して隠居の身で大御所政治を行い、最後の将軍・徳川慶喜が江戸城から移封された場所にもなりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代の町屋遺跡から細石器が見つかります。有度山麓や井川など丘陵や河岸段丘上で縄文時代の遺跡が見つかります。弥生時代中期に稲作農耕が伝わり、有東遺跡や瀬名遺跡で磨製石斧や木製農具が見つかりました。

三保松原
安部川から供給される大量の土砂によって生み出された砂浜で、舞い降りた天女が羽衣を返却されて再び天に帰る羽衣伝説が残ります。

登呂遺跡
弥生時代後期の遺跡で、住居や倉庫と広い水田が見つかりました。当時の生活を知ることができる貴重な遺跡で国特別史跡となりました。
古墳時代、飛鳥時代
静岡市域は廬原氏を国造とする廬原国の中心地と考えられています。畿内を中心に前方後円墳が作られるようになると、静岡市域では3世紀後半から前方後円墳が造営されるようになりました。

日本平
日本武尊が東征したときに火攻めに遭いつつも賊を平定して、山頂から四方を眺めたことから日本平と呼ばれるようになりました。

神明山古墳群
神明山古墳群には1号墳と4号墳が残されており、1号墳は3世紀後半の前方後円墳で4号墳は6世紀末~7世紀初頭の円墳です。

三池平古墳
5世紀前半の前方後円墳で、朱塗りされた石室の中から鏡や大刀、鉄斧などの豊富な鉄製品が発見されました。

賤機山古墳
6世紀の円墳で、巨石を用いた県内最大級の横穴式石室から家形石棺とともに金銅で装飾された大刀や馬具、装身具が発見されました。
奈良時代、平安時代
駿河国に属して安倍・有度・庵原の3郡に分けられ、駿河国の府中が置かれたことから駿府と呼ばれるようになりました。平安時代には平将門の乱で功績がある藤原為憲の子孫と伝えられる入江氏が大きな勢力を持ちました。

片山廃寺跡
奈良時代の寺院跡で、塔や伽藍の規模と構成、瓦の型から駿河国分寺と考えられています。屋根瓦は山裾の宮川瓦窯跡群で焼かれました。

木枯森
安倍川最大の支流・藁科川の河川敷にある中州で、清少納言の枕草子にも記されて美しい風景として数多くの歌に詠まれました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府の御家人・梶原景時は執権の北条氏と対立し、鎌倉から西へ向かう途中の清見関付近で入江氏と合戦になりました。梶原景時は嫡子とともに梶原山の山中で自害しました。鎌倉幕府が滅びると、足利尊氏は今川範国を駿河・遠江の守護に置き、戦乱で荒廃した清見寺を造営して街道の防備と監視を行いました。
室町時代、安土桃山時代
今川氏親は検地や分国法を制定を行い、今川氏親の死後は妻の寿桂尼が若年の今川氏輝に代わり政務を取り仕切りました。花蔵の乱に勝利した今川義元が家督相続しますが、桶狭間の戦いで討たれて今川氏真が継いで、永禄11年(1568年)の武田信玄の駿河侵攻で今川氏は滅亡しました。天正10年(1582)年に武田家が滅亡すると徳川家康が駿府城に入り、徳川家康が関東に配置換えされると中村一氏が駿府城主となりました。

臨済寺庭園
今川家の菩提寺である臨済寺に造営された庭園で、裏山の沢筋から水をひき自然の渓谷を生かした高低差があります。年2日しか公開されていません。

東海道宇津ノ谷峠越
天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原攻めに向かう大軍を通すために整備したとされる道で、江戸時代には東海道の幹線道路となりました。
江戸時代
慶長10年(1605年)に徳川家康は将軍職を徳川秀忠に譲り移り住むことを決め、駿府城を改修や安倍川の治水事業などを行いました。元和2年(1616年)に徳川家康が死去し、寛永元年(1624年)から徳川忠長が城主となりましたが、寛永8年(1631年)に甲府(高崎)に蟄居を命ぜられて駿府城の城主は不在となり幕末まで城代が置かれました。安政元年(1855年)に安政東海地震が起こりました。

駿府城跡
徳川家康が浜松城から移転するため今川氏の館跡地に築いた城で、晩年に将軍職を徳川秀忠に譲ると大御所として政治の実権を握りました。

清見寺庭園
清見寺は徳川家康の幼少期に太原雪斎から師事していた寺院で、江戸時代初期に山本道斎が造営した庭園は徳川家康の意向が取り入れられています。

久能山
元和2年(1616年)に徳川家康が死去して遺命により遺骸が久能山に埋葬されることになり、久能城を廃止して東照宮が創建しました。

小島陣屋跡
宝永元年(1704年)に松平信治が構えた小島藩の陣屋で、高度な工法による石垣などは全国随一の保存状態と言われてます。

朝鮮通信使遺跡(興津清見寺境内)
朝鮮王朝から派遣された朝鮮通信使は、対馬から瀬戸内海を経て江戸を訪れるときに清見寺を宿泊所のひとつとしていました。

柴屋寺庭園
柴屋寺は今川氏に仕えた連歌師宗長ゆかりの寺で、天柱山や丸子富士を巧みに取り入れた借景式の庭園は江戸時代に作庭されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
最後の将軍徳川慶喜が移り住み徳川家の家督を相続した徳川家達が駿府藩主となり、明治2年(1869年)に静岡藩と改称しました。明治4年(1871年)の廃藩置県により静岡県が成立して、明治21年(1888年)に静岡市が誕生しました。明治32年(1892年)に清水港が開港場に指定されて茶の積出港として発展しました。昭和15年(1940年)の静岡大火、昭和20年(1945年)の空襲で大きな被害を受けましたが、平成15年(2003年)に清水市と合併して、平成17年(2005年)に政令指定都市に移行しました。