歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

浜松市

静岡県浜松市の浜名湖ガーデンパーク

浜松市は日本のほぼ中央に位置する静岡県最大の政令指定都市です。東は天竜川、西は浜名湖、南は遠州灘、北は天竜美林など豊かな自然に囲まれています。年間の日照時間が長く、温暖な気候に恵まれています。日本三大楽器メーカーの本社がある音楽の町として知られ、バイクメーカー発祥地として物づくりが盛んです。浜松餃子や三ヶ日みかんなどのグルメがあることでも知られています。

概要

面積
1,558.06km2
人口
782,662人(2023年1月1日)
市の木
マツ
市の花
ミカン
市の鳥
ウグイス
地図

歴史

浜松は古くに東海道が敷設され、交通の要衝として繁栄しました。徳川家康は曳馬城を攻略して浜松城に改め重要な拠点としました。江戸時代に遠州織物の生産で日本三大綿織物産地となることを皮切りに、日本三大楽器メーカーの本社が置かれる音楽の町となり、バイクメーカーが発祥するなど物づくりが盛んになりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

本州最古の人類の化石が見つかり、旧石器時代に浜北人が活動していました。縄文時代に滝沢鍾乳洞遺跡などで生活の跡が残り、蜆塚遺跡に静岡県内唯一の環状貝塚が形成しました。弥生時代には伊場遺跡などで米作りを始め、浜名湖畔や天竜川平野で銅鐸まつりが行われました。

静岡県浜松市の蜆塚遺跡

蜆塚遺跡

佐鳴湖の東岸にある縄文時代後期の集落跡で、中央の広場を囲んで28戸の住居跡や30基の墓地が並び、貝塚も4ヶ所で発見されました。20人ほどの人が生活していたと推定されています。

静岡県浜松市の滝峯才四郎谷遺跡

滝峯才四郎谷遺跡

滝峯の谷奥の小丘陵上にある遺跡で、埋められた状態の銅鐸が確認されました。滝峯才四郎谷からは7基の銅鐸が発見されたため、銅鐸の谷と呼ばれています。

古墳時代、飛鳥時代

赤門上古墳や馬場平古墳、光明山古墳などの大きな古墳が造営されました。

静岡県浜松市の赤門上古墳

赤門上古墳

内野台の舌状にのびる台地の端に築かれた前方後円墳です。4世紀前半に築造されたもので、木棺からは副葬品として三角縁神獣鏡や武器などが出土しています。

静岡県浜松市の光明山古墳

光明山古墳

5世紀中頃に築造された浜松市内最大の前方後円墳です。墳丘全体を2段に造り、斜面には葺石が敷かれ、墳丘上には埴輪が並べられていたことが判明しています。

静岡県浜松市の二本ヶ谷積石塚群

二本ヶ谷積石塚群

三方原台地東縁部に形成された積石塚で、発見された28基のうち8基が現存しています。渡来系の集団が営んだものと推定されており、出土品等から5世紀中葉頃に築かれたと考えられています。

静岡県浜松市の陣座ヶ谷古墳

陣座ヶ谷古墳

5世紀後半に築造された全長55メートルの前方後円墳で、大刀と変形獣形鏡が出土しました。主体部は石室ではなく、木棺直葬か粘土槨のようなものと考えられています。

静岡県浜松市の渭伊神社境内遺跡

渭伊神社境内遺跡

天白磐座遺跡ともよばれる古墳時代の祭場です。円錐形の小丘陵の頂上部に巨岩がそびえ、巨岩の岩陰から滑石製の勾玉、多数の手こね土器、土師器及び土馬や鉄鉾が出土しました。

奈良時代、平安時代

主要官道の東海道が整備され、浜松の前身となる浜津や波万万都の地名が生まれました。

鎌倉時代、南北朝時代

承久3年(1221年)の承久の乱ののち、山香荘の地頭として天野氏が入りました。建治3年(1277年)に十六夜日記の作者・阿仏尼が曳馬を訪れました。南北朝時代に南朝と北朝に分かれて対立すると、井伊城・鴨江城・千頭峰城・三岳城・大平城などで攻防が起きました。

静岡県浜松市の青崩峠

青崩峠

長野県下伊那郡南信濃村と磐田郡水窪町との境界をなす峠で、塩の道とも呼ばれる遠江国と信濃国を結ぶ重要な街道です。宗良親王、北条時頼、武田信玄などが往来した伝承があります。

静岡県浜松市の摩訶耶寺庭園

摩訶耶寺庭園

神亀3年(726年)に奈良の高僧・行基が創建した新達寺を始まりとする摩訶耶寺には、平安末期から鎌倉初期の手法が取り入れられた座視鑑賞式池泉庭が残されています。

静岡県浜松市の三岳城跡

三岳城跡

三岳山の深い谷や急斜面を利用して築かれた山城です。南朝方に属していた井伊氏が後醍醐天皇の皇子・宗良親王を擁して北朝方に抵抗し、筵元5年(1340年)に北朝方の攻撃で落城しました。

静岡県浜松市の千頭峯城跡

千頭峯城跡

南朝についた井伊道政は、本城の三岳城の支城の一つとして千頭峯城を築城しました。筵元4年(1339年)に高師兼が率いる北朝軍が攻撃し、3カ月持ちこたえたのち落城しました。

室町時代、安土桃山時代

明応7年(1498年)の地震と津波で浜名湖に海水が混じる汽水湖となりました。永禄11年(1568年)に徳川家康が今川氏の曳馬城を攻略し、元亀元年(1570年)に拠点を移して浜松城と改めました。元亀3年(1573年)に武田信玄が遠江国に侵攻すると、徳川家康は浜松城から出撃して三方ヶ原の戦いで生涯最大の敗戦を喫しました。

静岡県浜松市の浜名湖

浜名湖

浜松市の西部に位置する日本で10番目に大きい湖で、明応7年(1498年)頃の大地震で海と繋がり汽水湖となり、海水と淡水それぞれの栄養素が集まる恵まれた環境となりました。

静岡県浜松市の犬居城跡

犬居城跡

藤原南家工藤時理の後裔である天野氏が築城して居城としました。今川氏の支配下でしたが、今川義元が討死すると天野氏は武田氏に寝返り、徳川家康から2度攻められて落城しました。

静岡県浜松市の浜松城跡

浜松城跡

武田信玄の侵攻に備えるため、元亀元年(1570年)に徳川家康が築城しました。のちの歴代城主の多くが江戸幕府の重役に出世したことから、出世城と呼ばれるようになりました。

静岡県浜松市の二俣城跡及び鳥羽山城跡

二俣城跡

二俣城と鳥羽山城は周囲を天竜川に面した天然の要害に築かれました。徳川氏と武田氏の攻防戦が繰り広げられ、天正7年(1579年)には徳川家康の嫡子・松平信康が二俣城で自刃しています。

静岡県浜松市の犀ヶ崖古戦場

犀ヶ崖古戦場

元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで、徳川家康は犀ヶ崖辺りに夜営していた武田勢を急襲しました。地形に詳しくない武田方は地理を誤り、多くの人馬が崖に落ちたと伝わります。

江戸時代

元和5年(1619年)に高力忠房が浜松に入り城下町が整備され、文化14年(1817年)に水野忠邦が浜松城主となりました。綿花の産地であることを活かして遠州織物が生産され、大阪の泉州、愛知の三河と並ぶ日本三大綿織物産地の一つとなりました。文政元年(1854年)に安政東海大地震が起こりました。

静岡県浜松市の竜潭寺庭園

竜潭寺庭園

江戸時代初期に竜潭寺本堂北庭として築かれた池泉鑑賞式庭園です。竜潭寺は井伊氏の菩提寺とされ、作庭した小堀遠州は井伊家歴代の位牌を納めた御霊屋に視点が集約するように設計しました。

静岡県浜松市の長楽寺庭園

長楽寺庭園

長楽寺は平安時代初期に弘法大師が創建したとされます。境内にある庭園は小堀遠州が作庭したと伝えられる回遊式庭園で、遠州三名園のひとつとされています。

静岡県浜松市の大福寺庭園

大福寺庭園

室町時代の築庭と伝わる池泉庭園で、吉田藩の茶頭・山田宗徧が元禄期に回遊式の庭園に改修したといわれています。石組で阿弥陀三尊を現し、右手奥に滝石組みが配置されています。

静岡県浜松市の実相寺庭園

実相寺庭園

寛永5年(1628年)に金指近藤家が近藤季用の墓所を移して菩提寺としました。境内の庭園は、金指近藤家が伽藍を建立した同時期に作庭されたものと考えられています。

静岡県浜松市の旧高山家住宅

旧高山家住宅

19世紀半ばに漁業や農業を営んできた一般的な家屋で、浜松市西部にある村櫛町から移築されました。古民家のなかでは比較的小規模で、床上を前後2室に区切る簡単な間取りです。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で浜松県が置かれ、明治9年(1876年)に静岡県に編入しました。明治44年(1911年)に浜松市が誕生し、平成17年(2005年)には政令指定都市へと移行しました。明治22年(1889年)に王子製紙の気田工場が操業を開始し、明治33年(1900年)に日本楽器がピアノの製造を始めました。昭和6年(1931年)に全国産業博覧会が開催され、商工都市として全国に知られるようになりました。

戦後の復興

昭和19年(1944年)から浜松大空襲など27回にわたる空襲や艦砲射撃で市街地の大部分が焼失しました。昭和21年(1946年)に本田宗一郎が本田技術研究所を設立しました。昭和39年(1964年)に夢の超特急と称された東海道新幹線が開通しました。