沼津市

沼津市は静岡県東部に位置し、年間を通じて温暖な気候に恵まれています。北部の愛鷹山や南部の達磨山山系など緑豊かな山に囲まれ、駿河湾に面する海岸線は千本浜などのなだらかな海岸から南部の複雑に入り組んだ海岸まで変化に富んだ美しい海岸線を有しています。かつて海の有る軽井沢とも称される高級保養地として発展し、アニメ・ラブライブ!サンシャイン!!の舞台ともなりました。
概要
- 面積
- 186.96km2
- 人口
- 185,342人(2023年1月1日)
- 市の木
- マツ
- 市の花
- ハマユウ
- 地図
歴史
奈良時代に東海道が整備された交通の要衝は、戦略上重要な地となり武田氏、徳川氏、後北条氏で争いました。江戸時代に水野氏が入封して沼津城を築城して沼津藩を成立させると、沼津宿に武家屋敷が整備されて城下町として繁栄しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代に愛鷹山麓に住んだ人びとは、西大曲遺跡や西洞遺跡などを残しました。縄文時代前期に減少した遺跡は、縄文時代中期後半から愛鷹山麓や内浦湾沿岸に増加していきました。農耕技術が伝えられると雌鹿塚遺跡などで稲作を行い、水田と収穫した米を籾のまま納めた倉庫の跡が見つかりました。

休場遺跡
黄褐色火山灰層(休場層)中から全国で初めて旧石器時代の炉跡が2基発見され、炉の周辺から旧石器時代末期の細石器を中心とする石器が1千点以上も発見されました。
古墳時代、飛鳥時代
珠流河国と呼ばれた小国が分立していましたが、大和王権の影響が強まり古墳が造営されるようになりました。藤井原遺跡に半農半漁の集落が作られ、丸子神社の敷地では豊作や豊漁を願う祭祀が行われました。珠流河国は盧原国と一つとなり、駿河国と呼ばれるようになりました。

高尾山古墳
愛鷹山から南に延びる尾根の末端に立地する前方後円墳です。古墳時代前期に造営したと考えられ、破砕鏡・上方作系浮彫式獣帯鏡1面や鉄槍などの鉄製品が出土しました。

長塚古墳
6世紀前半と推定される前方後円墳で、沼津市内で最も完全な形状を留めています。埋葬施設は盗掘で破壊されましたが、古墳の構築とほぼ同時期のものと推定される祭祀跡が検出されています。

井田松江古墳群
丘陵尾根上に営まれた横穴式石室のある円墳で、古墳時代後期の23基の群集墓です。発掘調査された4基の古墳から金環や銅釧などの副葬品が出土し、18号墳は発掘当時の状態が見学できます。

江浦横穴群
鷲頭山の南の斜面にある92基の横穴墓と4基の円墳からなります。出土した須恵器から古墳時代の終わり頃と考えられ、直刀片や人骨が発見されたとも伝えられている。
奈良時代、平安時代
天武9年(681年)に伊豆国が分離して、駿河国が駿河・富士・盧原・安倍・有度・益頭・志太の7郡になりました。延暦20年(801年)には坂上田村麻呂が東北遠征で立ち寄り、富士山に戦勝祈願を行いました。天長2年(825年)に沼津に現存する最古の寺西光寺が開かれました。
鎌倉時代、南北朝時代
源義朝の七男で源頼朝の弟である阿野全成が駿河国阿野荘を与えられました。建仁3年(1203年)に謀反の容疑で捕らえられた阿野全成は、下野国で殺害されて沼津市の大泉寺に葬られました。阿野全成の子・阿野時元が挙兵するも鎮圧され、阿野荘は没収されて駿河国も伊豆国も北条得宗家が守護を務めました。
室町時代、安土桃山時代
暦応元年(1338年)に今川範国が駿河守護となりますが、延元元年(1336年)に沼津郷を与えられた曽我時助は独立した勢力を維持しました。文明8年(1476年)に今川義忠が死去して家督争いが起こると、長享元年(1487年)に家督争いを収めた伊勢新九郎盛時が興国寺城主となりました。延徳3年(1491年)に堀越公方・足利政知の跡継ぎ争いが起こると、伊勢新九郎盛時は足利茶々丸の館を急襲して攻め滅ぼし、北条早雲と称して韮山に城を構えて戦国大名として踏み出しました。
武田氏の侵攻
天正8年(1580年)に武田氏が駿河に侵攻すると、千本浜の沖で北条氏と戦いとなりました。武田氏は三枚橋城を築いて高坂源五郎が守りましたが、武田氏が撤退してからは松平康親・中村一栄が城主や城代を務め、慶長6年(1601年)から大久保忠佐が城主となりました。

興国寺城跡
のちに北条早雲を称する伊勢新九郎盛時が旗揚げした城として知られます。北条早雲は今川氏の家督争いで今川氏親に家督相続させた功績により、富士郡下方十二郷を与えられたとされます。

長浜城跡
後北条氏の水軍の根拠である重須湊を守るために築城されたと考えられています。駿河の今川義元が桶狭間の戦いで討死すると、駿河に侵攻してきた武田氏の脅威に備える役目もありました 。
江戸時代
慶長18年(1613年)に大久保忠佐が嫡子なく死去すると、三枚橋城は廃城となりました。沼津は紀州藩・徳川頼宣や徳川忠長と領主を変えましたが、寛永10年(1633年)から天領となりました。安永6年(1777年)に水野忠友が沼津を加封されると、三枚橋城の跡に沼津城を築いて沼津藩が成立しました。沼津は港町かつ宿場町でしたが、武家屋敷が置かれる城下町として発展しました。

白隠禅師墓
臨済宗中興の祖である白隠禅師の墓です。明和5年(1768年)に入寂した白隠禅師は、火葬されて長らく住職を務めた松蔭寺の本堂裏に葬られました。

洋式帆船建造地及びプチャーチン宿所
安政元年(1854年)に下田港に碇泊中のロシア軍艦ディアナ号は、安政大地震の津波で破損して修繕場所に向かう途中に沈没しました。プチャーチン提督はこの地で船を新造して帰国しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治元年(1868年)に沼津兵学校が設立され、翌年には沼津陸軍医学所が開設されましたが、明治5年(1872年)に兵学校は東京に移転されました。大正12年(1923年)に沼津市が誕生し、昭和13年(1938年)に兵器や航空機等を生産する軍需工業が成長したことで、昭和20年(1945年)に空襲を受けて大きな被害を受けました。

旧沼津御用邸苑地
明治27年(1894年)に大正天皇の療養のための本邸が完成し、大正11年(1922年)に全容が完成しました。昭和45年(1970年)に沼津御用邸記念公園となりました。
