歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

伊東市

静岡県伊東市のなぎさ公園

伊東市は静岡県最東端の伊豆半島東海岸にあり、西に天城山系から東の相模湾にかけてなだらかな地形をしています。年間を通して温暖な気候に恵まれ、市域の45%が国立公園区域に指定されています。海と山に囲まれた自然豊かな環境で、全国有数の湧出量を誇る温泉があり、大室山や城ヶ崎海岸などはユネスコ世界ジオパークに認定されています。

概要

面積
124.10km2
人口
64,858人(2021年11月1日)
市の木
ツバキ
市の花
ツバキ
市の鳥
イソヒヨドリ
地図

歴史

源頼朝と八重姫の悲恋の物語が残る伊東は、古くから温泉地として知られていました。江戸時代には将軍家に湯治湯が献上され、大正時代から昭和時代にかけて多くの文人墨客が訪れました。国鉄伊東線の開通により東京の奥座敷として全国に知られ、近代的な温泉地として発展しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代から人の営みがありましたが、伊豆東部火山群の噴出物で明瞭ではありません。縄文時代早期から中期にかけて台地上に集落が形成しました。縄文時代後期には海岸付近の低地に集落がつくられ、漁撈が行われていたと考えられています。弥生時代には松川の周囲に集落が立地して現在の市域の原型が形成されました。

静岡県伊東市の城ヶ崎海岸

城ヶ崎海岸

約4000年前の大室山の噴火で流出した溶岩が相模湾にたどり着いて岩場の断崖として屹立しています。海水で急速に冷やされた柱状節理の断崖に波が打ち寄せて絶景を生み出しています。

古墳時代、飛鳥時代

伊豆半島でよく見られる祭祀遺物を伴う遺跡が見られます。川奈などの海岸線にある海食洞穴を利用した祭祀遺跡は、日本人の神祭りのはじまりを想像させる遺跡として注目されています。

奈良時代、平安時代

藤原氏を遠祖とする伊東氏が伊豆で大きな勢力を誇りました。伊東祐親は伊豆に配流された源頼朝の監視役を務めました。治承4年(1180年)に源頼朝が平家討伐のため挙兵すると、伊東祐親は富士川の戦いで源氏に捕縛されて三浦氏の助命嘆願を潔しとせず自刃して果てました。

静岡県伊東市の物見塚公園

物見塚公園

伊東を治めていた伊東祐親の居館がありました。伊東氏は藤原南家の流れをくむ工藤氏の一族で、伊東祐親の子孫は各地に下向し、日向で大きな勢力を誇る伊東氏も一族になります。

静岡県伊東市の音無神社

音無神社

源頼朝と八重姫が密会を重ねたおとなしの森に鎮座する神社です。八重姫は千鶴丸という男児を生みますが、平家の追及を恐れた伊東祐親に殺され、二人の仲も引き裂かれました。

鎌倉時代、南北朝時代

伊東氏と宇佐美氏が有力御家人として成長しました。日蓮上人は世の乱れを嘆いて執筆した立正安国論が幕府への批判と見なされて、弘長元年(1261年)に伊豆に流刑となりました。

室町時代、安土桃山時代

長禄元年(1457年)に8代将軍足利義政は、弟の足利政知を鎌倉公方として派遣しました。足利政知は戦乱のため鎌倉に入ることができず、韮山に居を構えて堀越公方と呼ばれました。堀越公方は伊豆一国を支配しましたが、明応2年(1493年)に北条早雲により滅ぼされました。

江戸時代

徳川家康は史上最大の城と言われる江戸城を築城し、その石垣用の石材を伊豆から運びました。慶長9年(1604年)に徳川家康の命を受けたウィリアム・アダムスは、松川河口で日本初の洋式帆船を建造しました。伊東の温泉は将軍家にも愛用され、樽詰めされて船で江戸に運ばれました。

静岡県伊東市の江戸城石垣石丁場跡

江戸城石垣石丁場跡

徳川家康が江戸城を築城するときに必要な石材を調達した遺跡で、多賀火山と宇佐美火山の転石をおよそ2キロ先の港から運び出しました。江戸城石垣石丁場跡は熱海市や小田原市にも残されています。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治元年(1868年)に韮山県が置かれ、明治4年(1871年)の廃藩置県で足柄県となり、明治9年(1876年)に静岡県と合併しました。明治15年(1882年)に東京と伊豆を結ぶ汽船会社が設立され、東京への航路が開かれました。大正12年(1923年)の関東大震災や昭和5年(1930年)の北伊豆地震で大きな被害を受けましたが、昭和13年(1938年)に国鉄伊東線の開通により東京の奥座敷と呼ばれる近代的な温泉地へと変貌を遂げ、昭和22年(1947年)に伊東市が誕生しました。

静岡県伊東市の東海館

東海館

昭和3年(1928年)から平成9年(1997年)まで温泉旅館として営業していました。伊東市に寄贈され、平成13年(2001年)から内部の見学や入浴ができる施設となりました。