島田市

島田市は静岡県のほぼ中央に位置し、北には自然豊かな山地が連なり南西には日本一の茶産地として知られる牧之原台地が広がり、市域には南アルプスを源とする急流で有名な大井川が流れます。島田大祭帯まつりや島田髷まつり、金谷茶まつりが開催されることでも知られます。
概要
- 面積
- 315.70km2
- 人口
- 94,307人(2023年11月1日)
- 市の木
- 茶
- 市の花
- バラ
- 市の鳥
- オオルリ
- 地図
歴史
江戸時代の島田宿は、東海道五十三次の23番目の宿場となり、大井川を渡河する起点として繁栄しました。江戸幕府が崩壊すると幕臣や大井川の川越人足らは牧之原を開墾して日本最大級の大茶園を造営し、牧之原台地の開墾のため世界一長い木造歩道橋である蓬莱橋が設置されました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
古くから東西南北の文化が交差する地で、東鎌塚原遺跡から各地の文化を反映した土器が出土しています。米作りが伝わる弥生時代には、田ノ谷遺跡から鉄鏃、落合西遺跡から銅の腕輪が発見されいてます。
古墳時代、飛鳥時代
大井川右岸の牧之原台地東縁部を中心に多くの古墳が築造されました。愛宕塚古墳は島田市最大の前方後円墳で、この地域の有力な首長の墓と考えられています。古墳時代後期には円墳の駒形古墳や宮の段古墳などが造営されました。
奈良時代、平安時代
東海道が敷設されると、遠江国初倉駅が設けられました。11世紀中頃には伊勢神宮の荘園である大津御厨が置かれましたが、南北朝時代に解体されて大津荘となりました。
鎌倉時代、南北朝時代
観応3年(1352年)に南朝方の佐竹兵庫入道と駿河国守護の今川範国の子・今川範氏との間で大津城で激しい戦いとなり、今川氏に敗れた佐竹方が逃走しました。
室町時代、安土桃山時代
三河国、遠江国、駿河国を治めていた今川氏は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれて大きく状況が変化しました。永禄11年(1568年)には武田信玄と徳川家康が同時に攻め込み、今川氏真は掛川城に逃れるも翌年には開城しました。天正3年(1575年)に武田勝頼は設楽原で織田・徳川連合軍に惨敗して武田から徳川に勢力が変わりました。

諏訪原城跡
牧之原台地の北端部に近い台地上にある山城で、天正元年(1573年)に武田勝頼が馬場信春に命じて築城しました。天正3年(1575年)に徳川家康が攻め落として牧野城として使用されました。

上志戸呂古窯跡
安土桃山時代の半地下式の登り窯が検出されいてる遺跡です。天正16年(1588年)に徳川家康が朱印状を発給した遠州志戸呂に住んでいた陶工たちが営んでいた窯と考えられています。
江戸時代
江戸幕府は島田を直轄領として、江戸の防衛上の理由から大井川の架橋を許可しませんでした。大井川は人足で渡河するほかなく、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と謳われました。元禄9年(1696年)に大井川の川越制度が確立して川庄屋と年行事が渡河の運営を行い、島田宿は大井川を渡る川越の起点として料金所の川会所や人足の待合所である番宿が置かれました。

島田宿大井川川越遺跡
大井川は防衛上の理由で架橋や渡船が禁じられていました。渡河する人は、人足の肩車か輦台で渡河していました。島田宿は大井川を渡る川越の起点として大変賑わいました。

島田大堤
慶長9年(1604年)と翌年の慶長の大洪水で川除堤が決壊し、島田宿が押し流されました。島田代官・長谷川藤兵衛長勝は向谷水門の掘抜き、宿内に3本の灌漑用水を完成しました。

東海道菊川坂石畳
江戸時代後期に整備された諏訪原城跡から菊川宿へ至る途中の石畳で、菊川坂とも呼ばれています。全長161メートル、最大幅4メートルあり、江戸と京都を結ぶ主要街道でした。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で静岡県に属しました。明治2年(1869年)に中條金之助景昭ら旧藩士が牧之原荒地の開拓をはじめ、明治6年(1873年)にはじめて新芽を摘むことに成功し、のちに拡張されて大茶園となりました。昭和20年(1945年)に島田空襲で模擬原爆が投下されました。昭和23年(1948年)に島田市が誕生しました。

牧之原台地
駿河に居を移した最後の将軍・徳川慶喜に同行した武士や大井川の川越制度廃止で失職した川越の人足が不毛の牧之原の開墾をはじめ、日本一の大茶園へと発展しました。

蓬莱橋
明治12年(1879年)に牧之原の開拓のため大井川に架橋された木造歩道橋です。全長900メートルあり世界一の長さを誇る木造歩道橋としてギネス認定されています。
