磐田市

磐田市は静岡県西部の天竜川東岸に位置し、南部は遠州灘に面しています。全国トップクラスの日照時間で、温室メロンや海老芋などの農業生産が盛んです。地場産業の繊維産業に加え自動車や楽器などの生産が盛んな工業都市であり、サッカーやラグビーなどのスポーツが盛んな町として知られています。
概要
- 面積
- 163.45km2
- 人口
- 164,702人(2023年1月1日)
- 市の木
- クスノキ
- 市の花
- ツツジ
- 市の鳥
- ベッコウトンボ
- 地図
歴史
奈良時代に遠江国の国府と国分寺が置かれ、遠江国の中心となりました。江戸時代には東海道五十三次のほぼ中間地点に位置する見附宿が天竜川の渡河を控えた旅人で大いに賑わい、東西交通の要衝として発展しました。東海道線の敷設により都市機能は見附から中泉へ移り変わり、戦後に自動車部品関連企業などが進出して工業都市となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代の遺跡は80を超え、京見塚遺跡、国分寺・国府台遺跡などでナイフ形石器が出土しています。縄文時代前期の遺跡は少ないですが、磐田原台地北部の匂坂中遺跡などで遺物が見つかりました。中期になると中半場遺跡や新豊院山遺跡などから竪穴住居跡が発見され、石原貝塚などが形成しました。後期以降は西貝塚や見性寺貝塚などが形成し、鎌田・鍬影遺跡から弥生時代前期の遠賀川系土器が出土しました。弥生時代には二之宮遺跡や鎌田・鍬影遺跡などに大規模な遺跡が形成しました。
古墳時代、飛鳥時代
磐田原台地上には900基に及ぶ古墳が造られ、古墳時代前期から中期にかけて松林山古墳や銚子塚古墳、堂山古墳などの全長100メートルを超える前方後円墳が造営されました。東大塚天竜川河床遺跡には鎌倉時代にかけての集落がありました。

新豊院山古墳群
太田川の平野を望む新豊院裏山にある弥生時代から古墳時代の墳墓群です。古墳時代前期の2基の前方後円墳のうち2号墳の主体部からは、三角縁神獣鏡が出土しています。

銚子塚古墳附小銚子塚古墳
天竜川を臨む磐田原台地の縁部に造成された10基の古墳群です。銚子塚古墳は古墳時代前期の前方後円墳で、竪穴式石室から三角縁神獣鏡や巴形銅器などが出土しました。

御厨古墳群
松林山古墳・高根山古墳・御厨堂山古墳・稲荷山古墳・秋葉山古墳の5基の古墳が御厨古墳群として登録されています。松林山古墳は古墳時代前期の前方後円墳で、鏡や剣などが出土しています。

米塚古墳群
磐田原台地西縁にある古墳時代中期から後期に造営された円墳群です。12基の円墳で構成されていますが、現存するのは9基で、うち8基が史跡として指定されています。

土器塚古墳
中泉・国府台に造営された古墳時代中期の5世紀前半に造営された円墳です。管玉や鎧のかけらが見つかり、5世紀頃に遠江国造である土師氏一族の墳墓と考えられています。
奈良時代、平安時代
律令体制が成立して遠江国が置かれると、磐田は遠江国の中心としました。大之浦に臨む台地上に遠江国府が置かれ、遠江国分寺や遠江国分尼寺、大宝院廃寺などが建てられました。見附は遠江国の中心となり、東海道屈指の規模をもつ集落として発展しました。寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いで捕らえられた平重衡の世話をした千手の前は、平重衡の斬首後に尼となり遠江国に移り住みました。

長者屋敷遺跡
磐田原台地上にある土塁と堀がある遺構で、出土遺物等から奈良時代の官衙的性格をもつ施設跡と考えられており、7世紀末から8世紀の須恵器などの土器が出土しています。

遠江国分寺跡
天平13年(741年)前後に造営されて11世紀頃まで存続していたと考えられています。金堂、講堂、七重塔、南大門、中門などの伽藍跡が発見され、西側には築地塀の痕跡が残ります。
鎌倉時代、南北朝時代
見附は遠江国の中心であり続け、国衙や守護所が置かれました。
室町時代、安土桃山時代
駿河国の今川氏親は、遠江国守護の斯波義寛を追放して遠江国を支配下に置きましたが、今川義元が織田信長に討たれたことで徳川家康と武田信玄が領有を争うようになりました。徳川家康は見附に城之崎城を築き始めましたが、背後にある天竜川の地理的な問題から築城を断念して浜松城を拠点としました。元亀3年(1572年)に武田信玄が遠江国に侵攻すると、三方ヶ原の戦いの前哨戦となる一言坂で戦いとなりました。武田信玄が死去すると徳川家康が支配下に置き、徳川家康の家臣・伊奈忠次は、天正15年(1587年)頃に徳川家康の別荘として中泉御殿を建築し、天正18年(1588年)から寺谷用水の整備を始めました。
江戸時代
中泉御殿の東側に幕府の直轄領を支配するための中泉代官所が設けられました。江戸と京を結ぶ東海道のほぼ中間にある見付宿は、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠56軒を数える大規模な宿場町として大いに繁栄しました。安政元年(1854年)の安政東海地震で大きな被害を受けると、代官の林鶴梁が被災者の救済にあたりました。

見付宿
東海道五十三次のほぼ中央に位置する宿場町で、東海道屈指の規模がありました。西部に天竜川が流れ、天竜川の渡河を控えた旅人で大いに賑わいました。

磐田文庫
国学者の大久保忠尚は、元治元年(1864年)に私塾とともに磐田文庫を建設しました。のちにこの文庫を利用した人たちが中心となり見付学校が建設されることになりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
赤松則良が徳川家ゆかりの地である磐田原に入植して開拓を進めました。明治22年(1889年)に東海道線が敷設されると、現在の磐田駅が中泉に設けられて都市機能が見附から中泉に変化していきました。地場産業である織物や繊維製品の生産が活発になり、鉄道を利用して全国に出荷されました。昭和20年(1945年)に空襲で被害を受け、学童が集団避難中に爆撃に遭う事件も起きました。戦後にオートバイや自動車部品の関連企業が進出して工業都市としての基盤が整備され、昭和23年(1948年)に磐田市が誕生しました。

旧見付学校
明治8年(1875年)に建設された現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎で、名古屋の宮大工・伊藤平右衛門が建築しました。北側には幕末の私設文庫・磐田文庫があります。
