掛川市

掛川市は日本列島中央の太平洋側で静岡県の西部に位置します。北方の南アルプスから平野を介して南方の遠州灘に至る地形をしています。温暖な気候を活かして国内屈指の茶産地となり、生産されている茶は高い評価を得ています。
概要
- 面積
- 265.69km2
- 人口
- 113,652人(2023年1月1日)
- 市の木
- キンモクセイ
- 市の花
- キキョウ
- 市の鳥
- ウグイス
- 地図
歴史
掛川城は東海道と塩の道と呼ばれる秋葉街道が交差する城下町であり、高天神城を攻略するために築かれた横須賀城は横須賀街道の宿場町として繁栄しました。明治時代に二宮尊徳の指導を受けた岡田佐平治は、困窮する農民の救済を図る報徳運動を展開する拠点として遠江国報徳社を創設しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代の和田岡と堂山遺跡から石器が見つかります。萩ノ段遺跡や向畑遺跡から押型文土器の破片が見つかりました。原野谷川と逆川の合流点近くにある原川遺跡で市域で初めて稲作が行われ、山下遺跡などで方形周溝墓が営まれました。
古墳時代、飛鳥時代
130もの集落跡が残されており、横穴墓を含む古墳が1700基も確認されています。5世紀前後には在地色の強い埴輪を並べた和田岡古墳群などが造営され、6世紀以降は全国的に横穴式石室が広く普及するなか市役所周辺などに横穴墓が形成しました。

和田岡古墳群
原野谷川右岸の河岸段丘上に分布する5世紀前後に造営された古墳群です。前方後円墳4基、円墳16基、方墳3基で構成されており、5つの古墳が国の史跡に指定されています。
奈良時代、平安時代
律令体制が成立して遠江国に属しました。奈良時代から平安時代の郡家の存在を示す六ノ坪遺跡が形成しました。小笠山は土器づくりに適した粘土がとれるため、国府などに焼き物を供給していた清ヶ谷古窯跡などの窯が整備されました。やがて天皇家や延暦寺などの大きな寺院の荘園がおこり、国衙領や伊勢神宮の御厨がありました。武士団を形成していた内田家吉は源頼朝に従い木曽義仲の巴御前との一騎打ちで討ち取られ、原田荘の原清益は源義経に従い一ノ谷の戦いで戦功を挙げました。
鎌倉時代、南北朝時代
原氏が勢力を伸ばして原田荘全体を支配するようになりました。
室町時代、安土桃山時代
駿河国守護の今川義忠は遠江国侵攻のため、朝比奈泰煕に命じて掛川城を築城しました。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、永禄11年(1568年)に武田信玄と徳川家康に攻め込まれて、今川氏真は駿府城から朝比奈泰朝の掛川城に籠り、翌年に掛川城は開城しました。
武田氏と徳川氏の抗争
天正6年(1578年)に高天神城攻略の拠点として徳川家康が大須賀康高に命じて横須賀城を築きました。天正9年(1581年)に高天神城は落城しました。天正18年(1590年)の徳川家康の関東移封に伴い、山内一豊が掛川城主として城下町の整備や大井川の治水工事などを行いました。

掛川城跡
今川家家臣の朝比奈氏が遠江国侵攻のため築城しました。徳川家康が領有すると武田氏の侵攻に対する拠点となり、徳川家康が関東移封後に入封した山内一豊が城下町などを整備しました。

高天神城跡
鶴翁山の地形を巧みに利用した難攻不落の名城です。高天神を制するものは遠州を制すると言われた要衝で、徳川・武田の両雄が攻防戦を繰り広げました。

横須賀城跡
高天神城攻略の拠点として小笠山丘陵の先端部に築かれた山城で、高天神城が落城してから遠州南部の拠点となりました。

撰要寺墓塔群
天正9年(1581年)に大須賀康高が撰要寺を創建しました。撰要寺は大須賀康高や忠政のほか、城主を務めた本多利長一族をはじめとした600基もの墓塔群が存在しています。
江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで山内一豊が土佐に転封されると、松平氏、井伊氏などが城主となり、延享3年(1746年)に太田資俊が入封しました。関東と関西を結ぶ東街道には掛川宿と日坂宿が置かれ、掛川宿から塩の道と呼ばれる秋葉街道が整備されました。遠州灘沿いの横須賀街道には横須賀城があり、城下町とともに横須賀宿が整備されました。弘化4年(1847年)に岡田佐平治が倉真村に報徳社を設立しました。宝永7年(1707年)や嘉永7年(1854年)の大地震で大きな被害を受けました。

掛川城御殿
掛川城二の丸に建てられた藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政務を掌る御殿です。江戸時代後期の建物で、京都二条城など全国で4箇所しかない貴重な現存する城郭御殿です。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治元年(1868年)に成立した駿府藩が翌年に静岡藩となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で静岡県や浜松県への変更を経て、明治9年(1876年)に静岡県となりました。岡田佐平治・良一郎親子は二宮尊徳の指導を受けて農村復興の活動を行い、明治8年(1875年)に遠江国報徳社を創設し、明治31年(1898年)には大日本報徳社が設立しました。昭和20年(1945年)の空襲で大きな被害を受けながらも復興を遂げ、昭和29年(1954年)に掛川市が誕生しました。

旧遠江国報徳社公会堂
安居院義道庄七により遠州地方に伝えられた困窮する農民の救済を図る報徳運動の中心施設として、明治36年(1903年)に建てられた我が国屈指の大規模近代和風建築です。

淡山翁記念報徳図書館
昭和2年(1927年)に大日本報徳社2代社長の岡田良一郎(淡山)の功績を讃えて建築された鉄筋コンクリート製の図書館で、報徳の教えを伝える重要な図書や資料が保管されています。
