歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

幻の都・近江大津京

滋賀県大津市の近江神宮

飛鳥時代の後期に白村江の戦いで敗れた天智天皇は、防衛上の必要性や政治改革の推進のために飛鳥から近江大津宮に遷都しました。天智天皇は近江令を制定や日本最初の戸籍である庚午年籍を編纂して律令国家の基礎をつくりましたが、自身の崩御後に起きた後継者争いで都が飛鳥に戻されたため、近江大津宮は幻の都と呼ばれています。

中大兄皇子と大化の改新

舒明天皇と皇極天皇の間に生まれた中大兄皇子は、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変で蘇我入鹿を殺害し、中臣鎌足とともに天皇を中心とする大化の改新を進めました。皇極天皇は軽皇子に譲位して孝徳天皇が即位し、難波宮に遷都しました。孝徳天皇が崩御して皇極天皇が斉明天皇として再び皇位に就きますが、唐と新羅に攻められた百済に派兵する最中に崩御しました。

近江大津宮への遷都

百済への援軍を指揮していた中大兄皇子は、天智天皇2年(663年)に白村江の戦いで唐と新羅連合軍に惨敗しました。中大兄皇子は唐と新羅からの侵攻を防ぐため国内の国防を強化し、天智天皇6年(667年)に近江大津宮へ遷都して翌年に天智天皇として即位しました。

滋賀県大津市の近江大津宮錦織遺跡

近江大津宮錦織遺跡

天智天皇が奈良の飛鳥から遷都したという大津宮と言われ、天智天皇の崩御して起きた壬申の乱で大友皇子の自縊とともに廃都となりました。

滋賀県大津市の崇福寺跡

崇福寺跡

天智天皇7年(668年)に天智天皇が大津宮鎮護のために建立したと伝えられる古寺跡で、天平12年(740年)に聖武天皇が東国行幸の最後に参拝しています。

近江大津宮での政治

天智天皇は中央集権国家の成立を進めるため、天智天皇7年(668年)に中国唐の律令制を参考として日本で最初の法令となる近江令を制定しました。この頃に中臣鎌足が死去しますが大化の改新を完成させるべく、天智天皇9年(670年)には庚午年籍と呼ばれる全国規模の戸籍をつくりました。

藤原氏の誕生

天智天皇7年(668年)に乙巳の変から支え続けてきた中臣鎌足が死去すると、天智天皇はこれまでの功績を称え、中臣鎌足に大織冠の地位と藤原氏の姓を与えました。藤原氏は奈良~平安時代に活躍していくことになります。

額田王を巡る逸話

斉明天皇から才能を見出された額田王は、宮廷歌人として万葉集に多くの歌を残しました。額田王は大海人皇子の妃となり十市皇女を生みましたが、天智天皇から愛されて宮廷に迎え入れられました。額田王は蒲生野で薬草狩りをしたときに『あかねさす紫野行きや標野行き野守はみずや君が袖振る』と大海人皇子への想いを詠んだことで、天智天皇と大海人皇子の関係が崩れたとも言われています。

滋賀県大津市の穴太廃寺跡

穴太廃寺跡

大津宮の最北端で北陸道の交通の要衝に位置していた古代寺院で、出土遺物から平安時代中頃まで存続していたと見られています。

滋賀県大津市の衣川廃寺跡

衣川廃寺跡

7世紀中頃に創建された滋賀県内最古の寺院で特殊な伽藍配置をしていました。7世紀末頃にはすでに廃れていたと考えられています。

滋賀県大津市の南滋賀町廃寺跡

南滋賀町廃寺跡

大津宮関連遺跡のひとつで飛鳥の川原寺と同じ伽藍配置をしていました。出土遺物から7世紀後半の白鳳時代から平安時代末期まで存在していました。

天智天皇の崩御

天智天皇は弟の大海人皇子を皇太弟していましたが、天智天皇10年(671年)に嫡子の大友皇子を太政大臣に任命して跡継ぎ候補としました。天智天皇は病床に大海人皇子を呼んで天皇即位の意志を確認しますが、大海人皇子はこれを罠と見抜いて申し入れを固辞しました。大海人皇子は天智天皇の皇后・倭姫王が即位して皇太子に大友皇子を据えることを勧め、自身は出家して吉野へと向かいました。

壬申の乱と大津宮の廃止

天智天皇が崩御すると、大友皇子は天智天皇の陵墓造営のために人を集めました。この動きを不審と感じた大海人皇子は吉野を脱出して所領がある美濃を拠点に挙兵し、飛鳥を抑えたうえで近江大津宮に侵攻を行いました。天武天皇元年(672年)に両者は瀬田橋を挟んで激突し、この戦いに勝利した大海人皇子は飛鳥に都を戻して天武天皇として即位しました。古代日本最大の内乱となる壬申の乱の終結により、近江大津宮は5年で都としての役割を終えました。

滋賀県大津市の瀬田の唐橋

瀬田の唐橋

壬申の乱の最大の激戦地で大分君稚臣の突撃で勝負が決しました。これ以降も京都へ通じる軍事的な要衝として、唐橋を制するものは天下を制すと言われました。

明治時代以降の再評価

壬申の乱に敗れた大友皇子は天皇として認められていませんでしたが、明治3年(1870年)に明治政府が弘文天皇を追号して正式に歴代天皇に列せられました。昭和15年(1940年)には、皇紀2600年を記念して天智天皇を祀る近江神宮が創建されました。

滋賀県大津市の長等山前陵

長等山前陵

明治3年(1870年)に大友皇子が弘文天皇を追従されたことに伴い、長等山麓の一古墳が陵墓に選定されて死地の山前から長等山前陵と名付けられました。

滋賀県大津市の近江神宮

近江神宮

昭和15年(1940年)に創建した天智天皇を祭神とする神社で、天智天皇の歌が小倉百人一首の巻頭を飾ることから、かるたの聖地とされています。