大津市

大津市は琵琶湖の南西岸から南岸にかけて南北に細長い地形をしており、古代より琵琶湖の水上交通の要衝として繁栄しました。内陸性気候と瀬戸内海式気候の影響を受けて比較的温暖な気候で、雄大な琵琶湖と背後の山並みの緑が美しい景観を生み出しています。
概要
- 面積
- 464.51km2
- 人口
- 342,706人(2021年11月1日)
- 市の木
- ヤマザクラ
- 市の花
- エイザンスミレ
- 市の鳥
- ユリカモメ
- 地図
特集
歴史
古くから東海道と琵琶湖の水運の要衝として栄えた大津は、天智天皇が飛鳥から近江大津宮に都を移して律令国家の基礎を築きました。延暦寺や園城寺の寺社が台頭して対立しますが、荒廃した街を江戸幕府が港町かつ宿場町として復興させました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代のナイフ形石器などの道具類が見つかります。縄文時代前期には瀬田川西岸に最大級の淡水産の貝塚である石山貝塚が築かれ、縄文時代晩期には滋賀里遺跡などが見つかりました。弥生時代前期に稲作が伝わると丘陵裾に錦織遺跡・大伴遺跡・榿木原遺跡などの集落がつくられました。
古墳時代、飛鳥時代
4世紀になると地域の首長の大古墳が出現するようになり、6世紀後半から7世紀にかけて小豪族の群集墓が作られました。群集墓はドーム状の天井や炊飯具型土器が埋葬されているため、朝鮮半島に起源をもつ渡来人の墓と考えられています。
近江大津宮
天智天皇6年(667年)に天智天皇が近江大津宮に都を定めましたが、弘文天皇元年(672年)の壬申の乱で瀬田川の橋で戦闘となり、大友皇子は自決して近江大津宮は廃絶しました。

皇子山古墳
4世紀後半の市内最古の古墳で前方後方墳の形をしています。地方首長の墓と考えられ、琵琶湖からの眺望を意識して築造されています。

茶臼山古墳・小茶臼山古墳
4世紀末~5世紀初頭に築造された茶臼山古墳は滋賀県内で2番目の規模を持ち、小茶臼山古墳は茶臼山古墳の陪塚と考えられています。

春日山古墳群
7世紀前半頃までに築かれた200基以上の古墳から構成される湖西地方最大の古墳群で、初期大和政権で重要な役割を果たした和邇一族の墓域ともいわれています。

唐崎(唐崎神社境内)
舒明天皇5年(633年)頃に唐崎に居住した琴御館宇志丸が松を植えて軒端と名付けたことに始まり、室町時代末に近衛信伊が近江八景に選定しました。
奈良時代、平安時代
瀬田に地方行政を行う国府が置かれ、田上山など湖南の山からは平城京の造営に必要な木材が搬出されました。天平宝字5年(761年)に保良宮の造営がほぼ終わると孝謙上皇と淳仁天皇が行幸しています。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京に遷都すると大津はその外港として再び繁栄し、寿永3年(1184年)には木曾義仲が粟津の戦いで源義経らに敗れました。

近江国府跡(国庁跡)
近江国の政治や行政を行う場所で、正殿など4つの大きな建物がありました。正殿前の前庭や脇殿で役人が仕事をしていました。

近江国府跡(惣山遺跡)
東大寺正倉院の2/3に匹敵する巨大な瓦葺礎石建物の跡が12棟見つかり、巨大な倉庫列が配された日本最大の大倉庫列です。

近江国府跡(青江遺跡)
国庁と南北道で結ばれた築地塀で囲まれた敷地に巨大な瓦葺礎石建物が建てられおり、最も国庁に関係が深い遺跡と考えられています。

近江国府跡(中路遺跡)
古代の道路の側溝や礎石建物跡のほか土器や屋根瓦がたくさん見つかり、その中に修の刻印が押されたものが見つかりました。

堂ノ上遺跡
東海道と信楽に通じる道の分岐点にあたり、承和11年(844年)を記した瓦が出土したことから、奈良から平安時代の瀬田の駅家跡と見られています。

禾津頓宮跡
8世紀中頃の大型建物跡が見つかり、聖武天皇の東国行幸に際して営まれた禾津頓宮の中心的な建物と推定されています。

延暦寺境内
延暦7年(788年)に最澄が比叡山に開いた一乗止観院は、やがて延暦寺として朝廷から崇敬されて宗教界の大勢力に成長しました。

義仲寺境内
平安時代末期にこの地で死を遂げた木曽義仲を側室の巴御前が供養したことに由来しています。境内には義仲を支えた巴御前の塚が残されています。
鎌倉時代、南北朝時代
円珍が延暦寺から分立して園城寺を開くと、延暦寺と園城寺は争うようになりました。建保2年(1214年)には延暦寺の僧兵が園城寺を焼き討ちしました。南北朝時代には延暦寺は南朝となり、園城寺は北朝について争いが続きました。

園城寺
智証大師円珍が再興した天台宗の寺院で、天智天皇、天武天皇、持統天皇の生湯に用いられた井戸があるため三井寺の通称で知られています。
室町時代、安土桃山時代
延暦寺の勢力はますます大きくなり、足利義教や細川政元ら権力者による焼き討ちが相次ぎました。応仁2年(1468年)には延暦寺衆徒が堅田の真宗門徒を攻める堅田大責が起こり、元亀2年(1571年)には織田信長が比叡山を焼き討ちして坂本城を築いて明智光秀に守らせました。大津や坂本、堅田などが物資の水上運送で堅田水軍が活躍しました。
大津城の戦い
天正14年(1586年)に豊臣秀吉は坂本城を廃城にして大津城を築城しましたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで大津城主京極高次が東軍に与すると、西軍の毛利元康らが大津城を包囲して大津の城下町が全焼しました。慶長6年(1601年)に徳川家康が大津城を廃城にして、大津と瀬田の間に膳所城を築城しました。

円満院庭園
寛和3年(987年)に村上天皇の第三皇子悟円親王により創建した円満院にある三井の名庭は、室町時代の相阿弥の作と言われる池泉鑑賞式庭園です。

聖衆来迎寺庭園
天正17年(1589年)に京都の元応国清寺の建物を移築したときに造営された庭園で、石組をめぐらせて島をつくり当時としては珍しいソテツが配されています。

光浄院庭園
室町時代に光浄院が造営されたときに築庭されたとされる池泉観賞式の庭園で、池に自然石の石橋をかけた中島や夜泊石を設け、立石を組んだ枯滝を配しています。

日吉神社境内
創建は分かりませんが、織田信長の比叡山焼き討ちで荒廃したものを天正年間(1573~91年)に旧拝島村総鎮守山王社として現在地に建立されたとされます。
江戸時代
大津城の戦いで焦土と化しますが、江戸幕府は大津を港町かつ宿場町として復興させました。大津宿は東海道の宿場町として人の往来で繁栄して大津絵、大津算盤などの名物が生まれ、琵琶湖を往来する船業者組合・大津百艘船の本拠が置かれて琵琶湖水運の拠点となりました。膳所城下は膳所藩のもとしじみ採りや膳所焼が産業となり、元禄11年(1698年)に堅田藩が立藩して文政9年(1826年)まで続きました。

善法院庭園
桃山時代後期から江戸時代初期に築庭された庭園で、池の右手にある築山には腰掛松があり、その松が枝を低く池の上に広げていた記録が残されています。

旧正蔵坊庭園
江戸時代初期に作庭された庭園で、不動石と枯滝を伴う石組みで表現された天台密教の世界と浮島と洞窟からなる神仙蓬莱の世界が表現されています。

盛安寺庭園
17世紀に築造されたと考えられる鑑賞式の枯山水庭園で、築山にはツバキを中心とした生け垣が巡らされています。

居初氏庭園
堅田の郷士居初家にある千利休の孫・千宗旦の弟子である藤村庸軒が設計した枯山水庭園で、琵琶湖を眼前に眺められて対岸の湖東の山並みを借景としています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治元年(1868年)に大津県が置かれ、明治5年(1872年)に滋賀県が成立して大津に県庁が置かれました。明治23年(1890年)に琵琶湖疏水が完成し、明治38年(1891年)に南郷洗堰(現在の瀬田川洗堰)が完成しました。レーヨン工場に象徴される工業都市化しましたが、昭和20年(1945年)大津空襲で大きな被害を受けました。
大津事件
明治24年(1891年)に日本を訪問中のロシア皇太子ニコライが津田三蔵巡査に斬りつけられて負傷する大津事件が起こりました。外交上の問題に発展して明治政府は強く干渉しましたが、司法の独立を維持して三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件となりました。

琵琶湖疏水
明治23年(1890年)に完成した人工運河で、琵琶湖の水が京都へ流されるようになりました。琵琶湖疏水は京都の発展に今もなお貢献しています。

びわ湖大津館(旧琵琶湖ホテル)
昭和9年(1934年)に琵琶湖ホテルが開業して湖国の迎賓館として機能しました。現在はびわ湖大津館として利用されています。
延暦寺坂本里坊庭園
比叡山東麓の坂本は琵琶湖の舟運に恵まれて延暦寺領から年貢米などが運ばれたほか、日吉社の門前町として栄えました。元亀2年(1571年)の織田信長よる比叡山焼き討ちで焼き払われましたが、明暦元年(1655年)に天台座主法親王力が滋賀院門跡として住んだことを契機として多く里坊が成立していきました。

延暦寺坂本里坊庭園(雙厳院庭園)
真正面に配された阿弥陀三尊石の手前には権現川から水が取り入れられ、里坊中随一という仏足石が置かれています。

延暦寺坂本里坊庭園(宝積院庭園)
山畔を利用した池泉観賞式の庭で、池水は石の樋から一条の水を滝に見立てて流れ込むようにつくられました。

延暦寺坂本里坊庭園(滋賀院門跡庭園)
後水尾天皇から滋賀院の号をうけた寺院にある庭園は、江戸時代初期に小堀遠州が作庭したとされる池泉鑑賞式庭園です。

延暦寺坂本里坊庭園(佛乗院庭園)
江戸時代初期の池泉観賞式の庭園で、風情のある一条の滝の水が池に流れ込み、池には中島が造られて三方に石橋が渡されています。

延暦寺坂本里坊庭園(旧白毫院庭園)
江戸初期に白毫院が建築された当時に作庭され、明治初期に料亭・芙蓉園の所有となりました。

延暦寺坂本里坊庭園(旧竹林院庭園)
八王子山を借景にした池泉回遊式庭園で、大宮川の清流を引き込んでいます。大正年間に建てられた茶室と四阿が残されています。

延暦寺坂本里坊庭園(蓮華院庭園)
里坊庭園で最も古い庭園と言われており、当初は枯山水でしたが江戸時代初期に池泉式に改造されたと言われています。

延暦寺坂本里坊庭園(律院庭園)
昭和時代に叡南祖賢が復興した寺院にある池泉回遊式で、穴太衆積みの石垣を巡らせて背の低い竹垣を設けて築山に続いています。

延暦寺坂本里坊庭園(実蔵坊庭園)
庭園は大宮川からの流水は庭園を斜めに貫流して大きな中島が設けられていますが、残念ながら非公開です。

延暦寺坂本里坊庭園(寿量院庭園)
純海が創建したとされる寺院につくられた江戸時代末期の池泉鑑賞式庭園で、大宮川から取り入れた池の真ん中に石橋が渡されています。