平安京遷都と天皇中心の政治

桓武天皇は10年間住んだ長岡京を離れ、三方を山で囲まれて南に大きく開けた北高南低の地形に新都を築きました。国名は山背国から山城国へと改められ、平安に続くようにとの願いを込めて平安京と名付けられました。奈良時代の律令制を継承しながら中国唐の大陸文化を吸収していき、千年もの長い間続く日本の首都の礎を築いていきました。
長岡京から平安京遷都
仏教勢力の巨大化するに伴い、延暦3年(784年)に桓武天皇は仏教勢力から逃避するため未完の長岡京へと遷都しました。その翌年、長岡京の工事責任者である藤原種継が矢で射抜かれて殺害される事件が起こり、容疑者のひとりとして、皇太子の早良親王が淡路島に島流しとなりました。早良親王は無実を証明するため断食して命を絶つと、疫病や洪水が流行して桓武天皇の周囲に不幸が相次ぎました。これらの不幸は早良親王の怨念と考え、和気清麻呂の建議を受けて平安京へと遷都することになりました。
平安京
桓武天皇は、東北地方の蝦夷平定を進めつつ鴨川と桂川に挟まれる京都盆地に中国長安を模した都づくりを行いました。平安京は仏教勢力を排除するため基本的に寺院を置きませんでした。桓武天皇は国司の交代で争わないよう勘解由使を置き、兵役を廃止して徴兵制としたほか、徳政論争により国民の大きな負担である蝦夷平定と平安京の造営を取りやめました。

平安宮跡(内裏跡)
延暦年間(782~806年)に造営された天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿でした。周囲には朝堂院や豊楽院などが並びました。

平安宮跡(朝堂院跡)
八省院とも呼ばれ、朝廷が天皇の儀式や外国使節と謁見するなど国家の重要な儀式を行う場所でした。

平安宮跡(豊楽院跡)
外国使節との国家的饗宴などが行われた建物跡で、康平6年(1063年)に焼失してから再建されませんでした。

神泉苑
延暦13年(794年)に大内裏の南東隣りに桓武天皇が造営した庭園で、天皇の庭園として詩会、避暑など 宮中行事が行われました。

西寺跡
延暦15年(796年)に平安京の入口である羅城門の西に創建された寺院で、正暦元年(990年)の大火などで衰退しました。

栗栖野瓦窯跡
平安京造営以前から良質の粘土や薪に恵まれて瓦製造が盛んに行われていたため、平安京の宮殿や東寺・西寺の瓦が製造されました。

清水寺
奈良の高僧・賢心が老仙人・行叡居士を感得して草庵を結んだことに始まり、延暦24年(805年)に坂上田村麻呂が寺院を建立したとされます。
平城天皇と薬子の変
桓武天皇の跡を継いだ平城天皇は、勘解由使を廃止して観察使を置いて地方の監視を強化するなどの政策を行いました。平城天皇は藤原薬子の娘と結婚しつつも藤原薬子とも不倫関係となり、皇位を嵯峨天皇に譲渡して上皇となると、弘仁元年(810年)に権威失墜を恐れた藤原薬子は、平城上皇を皇位復帰させて平城京に遷都しようとしました。嵯峨天皇はすぐさま軍を差し向け、平城上皇は出家、藤原薬子は服毒自殺して事態は収拾しました。嵯峨天皇は弘仁7年(816年)頃に検非違使を設置して平安京付近の治安保護に努めました。

大覚寺御所跡
貞観18年(876年)に嵯峨天皇の離宮である嵯峨院が寺院に改められ、歴代の天皇や皇族が住持する門跡寺院となりました。
唐風文化
遣唐使がもたらした大陸文化により、日本では中国唐を手本とする唐風文化が花開きました。宮廷の儀式や建物の名称が唐風に改められ、漢詩文を重んじて多くの漢詩集が編纂されました。唐で仏教を学んだ最澄は比叡山延暦寺を建てて天台宗を広め、同じく空海は高野山金剛峰寺を建てて真言宗の布教に努めました。これらの文化は年号から、弘仁・貞観文化とも呼ばれています。

嵐山
嵯峨天皇が離宮として嵯峨院(現大覚寺)を造営したことで天皇家ゆかりの地となり、皇族や貴族の別荘地として栄えました。

大沢池附名古曽滝跡
嵯峨院に作庭された周囲約1キロの日本最古の人工の庭池で、嵯峨天皇が中国唐の洞庭湖を模して造らせました。日本三大名月鑑賞地として観月の名所として知られます。

教王護国寺(東寺)境内
羅城門の東に作られた寺院で、空海が真言密教の根本道場としました。境内にある五重塔は寛永21年(1644年)に徳川家光が再建したものです。
藤原氏の台頭
蔵人頭として薬子の変を鎮圧した藤原冬嗣は政治の実権を握るようになりました。藤原冬嗣の跡を継いだ藤原良房は、承和9年(842年)に橘逸勢らを島流しにする承和の変で権力基盤を確立し、貞観8年(866年)には応天門の火災を端として伴善男を島流しにする応天門の変により、最終的に摂政まで上り詰めました。

法金剛院青女滝附五位山
平安時代初期の右大臣・清原夏野の山荘を起源とする律宗の寺院で、珍しい花が植えられた山荘から花園の地名となりました。

醍醐寺境内
貞観16年(874年)に空海の孫弟子である聖宝理源大師が開山しました。五重塔は京都最古の木造建築で、法隆寺と瑠璃光寺とともに日本三大名塔に数えられます。
宇多天皇と菅原道真
藤原良房の跡を継いだ藤原基経は、仁和3年(887年)に宇多天皇から関白とともに阿衡の任を与えられましたが、これに言いがかりをつけて職務を放棄し、橘広相の島流しを要求しました。菅原道真は藤原基経に書状を送りこれを阻止しましたが、この阿衡の紛議で菅原道真は宇多天皇から重用されるようになり、藤原氏から疎まれるようになりました。

仁和寺御所跡
光孝天皇の勅願で建立が始まり、仁和4年(888年)に宇多天皇により落成しました。宇多天皇は出家後に御室を建造して住居としました。
菅原道真の怨霊
宇多天皇から醍醐天皇の譲位されると、醍醐天皇は藤原氏を警戒して摂政と関白を廃止し、天皇が自ら政治を行う延喜の治へと移行しました。醍醐天皇は藤原時平を左大臣、菅原道真を右大臣としますが、これを快く思わない藤原時平は菅原道真を遣唐使の使者としようとしました。寛平6年(894年)に菅原道真は遣唐使そのものを廃止してこれを阻止しましたが、藤原時平は菅原道真が醍醐天皇を廃位しようとしているとして、延喜元年(901年)に菅原道真を太宰府に配流しました。菅原道真は失意のうちに大宰府で亡くなると、藤原時平が死去して天皇家の男児が次々と亡くなりました。さらに疫病が流行して干ばつが起こり、清涼殿で雨乞いを検討しているところに雷が落ちて多くの貴族が犠牲となりました。