歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

貴族中心の国風文化

京都府京都市の平安神宮

奈良時代の宮廷文化は中国の文化をそのまま取り入れてきましたが、全てを受け入れると次第に日本独自の文化が生まれていきました。遣唐使の廃止により国風文化が花開き、紫式部の源氏物語、清少納言の枕草子をはじめとする文学作品が数え切れないほど生まれました。

藤原氏による他氏排斥運動

弘仁元年(810年)に藤原冬嗣が薬子の変を鎮圧すると、藤原冬嗣の一族は権力を盤石なものとするため、有力な他氏を排斥する運動を起こしました。藤原冬嗣は承和9年(842年)の承和の変に始まり、貞観8年(866年)の応天門の変で橘氏や伴氏を排斥し、のちの子孫も他氏排斥を行い藤原氏による摂関政治を盤石なものとしました。

安和の変

醍醐天皇から皇位を継いだ朱雀天皇は、嫡子不在により弟に譲位して村上天皇が即位しました。皇位が村上天皇から冷泉天皇に譲位されると、権力失墜を恐れた藤原氏は源高明の娘が嫁いでいる為平親王を即位させないように働きかけます。藤原氏は源満仲を利用して源高明が謀反を企んでいると密告させ、源高明は大宰府へと左遷され、守平親王が円融天皇として即位しました。

寛和の変

円融天皇は藤原家兼の娘・藤原詮子との間に懐仁親王を設けました。円融天皇が花山天皇に譲位すると、藤原家兼は早く懐仁親王に譲位することを望みました。花山天皇が妃の藤原忯子を病で失うと、出家して忯子を供養したいと考えるようになり、藤原兼家の子・藤原道兼は花山天皇に一緒に出家することを持ち掛けて花山天皇を騙し、懐仁親王を即位させて一条天皇としました。

摂関政治の全盛期

藤原兼家の四男である藤原道長は、兄の藤原道隆と藤原道兼の死去により実権を握るようになりました。藤原道長は権力を掌握して娘たちを天皇に嫁がせ、その娘たちが男児が生んでいきました。藤原道長とその子藤原頼通のころに摂関政治は最盛期を迎えました。

藤原道長

藤原道長の娘・藤原彰子は一条天皇との間に敦成親王を生み、三条天皇のあとに後一条天皇として即位しました。その弟の敦良親王が跡を継いで後朱雀天皇として即位し、道長の娘・藤原嬉子との間に生まれた子が、後冷泉天皇として即位しています。藤原道長は娘たちを天皇に嫁がせて権力を掌握し、娘の藤原威子を天皇の妃とした祝宴で「この世をば我が世とぞ思ふ 望月のかけたる事もなしと思へば」と詠いました。

女流文学の興隆

唐の文化を吸収しつくした国内では、独自の国風文化が芽生えました。藤原兼家の孫で一条天皇に嫁いでいく藤原定子の家庭教師をしていた清少納言は枕草子を執筆し、藤原道長の娘で一条天皇の妃となる藤原彰子の家庭教師を務めた紫式部が源氏物語を作成しました。これらのほか女流作家が多く誕生し、平仮名と片仮名の仮名文字で書かれました。

京都府京都市の随心院境内

随心院境内

正暦2年(991年)に法孫仁海が創建した真言宗の寺院で、小野小町が晩年を過ごしたと伝わります。

京都府京都市の雙ヶ岡

雙ヶ岡

吉田兼好が草庵を結び、清少納言の枕草子、鴨長明の方丈記とともに日本三大随筆のひとつとなる徒然草を著しました。

摂関政治の衰退

藤原道長の跡を継ぐ藤原頼通は、具平親王の娘・高姫を妻に迎えましたが、子供が生まれませんでした。藤原頼通は敦康親王の娘・嫄子を養子に迎えて後朱雀天皇に嫁がせ、さらに弟の藤原教通、頼宗も後朱雀天皇に娘を嫁がせていきます。それでも男児が生まれずに後冷泉天皇へと譲位され、後三条天皇へと譲位されました。

後三条天皇と摂関政治の終わり

藤原氏を外戚に持たない後三条天皇は、大江匡房を登用して親政を行いました。米の量を測る桝の大きさを定める宣旨桝を制定して国司の不正対策を講じたほか、延久元年(1069年)に延久の荘園整理令で土地を整理して、藤原氏の権限である不輸・不入の権を牽制して藤原氏は一気に衰えていきました。