歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

鎌倉幕府の成立と京の都

京都府京都市の南禅寺境内

治承・寿永の内乱を経て本格的な武家政権の時代へと突入しますが、鎌倉幕府が誕生しても朝廷は権威を保持し続け、京都は日本最大の巨大都市であり続けました。京都は日本最大の商業や金融の中心地として、日本全国の経済的中心としての地位を高めていきました。

鎌倉幕府の成立

文治元年(1185年)に源頼朝が平家を滅ぼし、各地に守護・地頭を設置して武家政権を確立しました。源氏は鎌倉を拠点として奥州を平定し、後白河法皇が崩御すると幕府の支配は盤石なものとなりました。源頼朝の娘・大姫が後鳥羽天皇に入内する話がありましたが、後白河法皇が寵愛する丹後局の反対により破局し、朝廷と幕府の関係が悪化しました。

源頼朝の死去

後鳥羽天皇から土御門天皇に譲位され、反幕府派の後鳥羽上皇が院政を始めました。幕府では、源頼朝の死後に十三人の合議制を始め、朝廷に好意的な3代将軍源実朝は暗殺されて源氏の血筋が途絶えました。幕府は皇族から将軍を選ぼうとしますが、これに失敗して公家の九条家から養子を取り将軍としました。

承久の乱

後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を出して討幕を進め、北条政子は御家人を集めて一致団結させました。承久3年(1221年)の承久の乱で幕府が朝廷を破り、幕府はかつて平家が拠点としていた六波羅に六波羅探題を設置して王朝政権の監視を行い、篝屋を48カ所に設置して京都の警護や治安維持を図りました。

京都府京都市の高山寺境内

高山寺境内

宝亀5年(774年)に創建した古刹で、建永元年(1206年)に明恵上人が後鳥羽上皇より寺域を賜り高山寺として再興しました。

元寇と二月騒動

中国大陸で南宋を攻め取ろうとした元は、文永3年(1266年)から日本に同盟の使者を送りました。朝廷と幕府は元に返書を送らないことを決定しますが、再三の国書により朝廷と幕府は返書について意見が異なるようになりました。六波羅探題の北条時宗の兄・北条時輔は朝廷の意見に同調するようになり、鎌倉の名越北条氏と反乱を企てましたが、この二月騒動は北条時宗が鎮圧して六波羅は焼失しました。

文永の役と弘安の役

文永11年(1274年)に元と高麗の連合軍は対馬や壱岐を制圧して博多湾へと攻め込みました。博多の町は焼失しましたが、元と高麗の連合軍は突如として兵を引いて戦いは終わりました。再び元は日本へ使者を派遣しますが、鎌倉幕府はこれを殺害して服属を拒否ししたため、弘安4年(1281年)に二度目の侵攻である弘安の役が起こりました。鎌倉幕府は元を退けましたが、2度の蒙古襲来を遠因として滅亡へと進みます。

天皇家の分裂

後嵯峨天皇は、久仁親王を後深草天皇として即位させて院政を敷き、後深草天皇の病により亀山天皇を即位させました。後嵯峨上皇が崩御すると幕府の意向に従い、亀山天皇が上皇となり、亀山天皇の皇太子が後宇多天皇が即位して後深草上皇の嫡子・煕仁親王が皇太子となりました。煕仁親王が伏見天皇として即位すると、正応3年(1290年)に浅原為頼が伏見天皇暗殺未遂事件を起こし、亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統の双方が黒幕だとして分裂しました。伏見天皇から後伏見天皇に継承されてから両統が交互に皇位を継承するようになり、後二条天皇、花園天皇、後醍醐天皇と両統迭立の状態が続きました。

京都府京都市の南禅寺境内

南禅寺境内

正応2年(1289年)に亀山天皇が離宮で出家して法皇となり、離宮を寄進して大明国師を開山として禅寺となりました。

京都府京都市の南禅院庭園

南禅院庭園

亀山天皇が自ら作庭し、日本初の作庭家ともいわれる夢窓疎石が完成したと伝わる鎌倉時代末期を代表する池泉回遊式庭園です。

京都府京都市の玉鳳院庭園

玉鳳院庭園

花園法皇離宮跡に法皇自ら建立した寺院で、境内には蓬莱式の枯山水庭園がありますが、一般公開されていません。

鎌倉幕府の滅亡

後醍醐天皇は反幕府派の武士や貴族を取り込んで討幕運動を始めますが、正中元年(1324年)に六波羅探題に漏れて失敗し、二度目の討幕計画も笠置山で挙兵するも敗れて隠岐島に島流しとなりました。皇位は光厳天皇が継承しましたが、楠木正成や護良親王が討幕運動を継続し、隠岐島から脱出した後醍醐天皇が討幕の命令を出しました。足利高氏は幕府から離反して六波羅探題を攻め、新田義貞が鎌倉に侵攻して鎌倉幕府は滅亡しました。