歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

室町幕府と北山/東山文化

京都府京都市の鹿苑寺(金閣寺)庭園

鎌倉幕府の滅亡により後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、足利尊氏により新しい武家政権が開かれました。京都は政治的中心としての地位を取り戻し、足利義満の北山文化や足利義政の東山文化などの純日本風の文化が花開きました。

建武の新政

足利高氏、千種忠顕、赤松則村らの活躍により六波羅探題が滅亡すると、後醍醐天皇は摂政や関白を置かず、院政や幕府ではない新政を開始しました。建武の新政は武士の不満を買い、足利尊氏が人気を得て護良親王が対立しました。護良親王は足利尊氏に捕らえられて鎌倉で殺害され、足利尊氏は朝敵と見なされました。

京都府京都市の西芳寺庭園

西芳寺庭園

奈良時代に行基の開創と伝えられる古刹で、暦応2年(1339年)に造園にすぐれた夢窓国師が復興しました。

京都府京都市の天龍寺庭園

天龍寺庭園

足利尊氏が創建した寺院に夢窓国師が作庭した池泉回遊式庭園で、大堰川を隔てた嵐山や庭園西に位置する亀山を借景としています。

南北朝時代の成立

後醍醐天皇は足利尊氏討伐を新田義貞に命じますが、鎌倉で中先代の乱を治めた足利尊氏は京都へ押し返しました。京都で楠木正成や新田義貞らに敗れた足利尊氏は九州へ落ち延び、光厳上皇の院宣を得て九州で力をつけて 京都へと戻りました。建武3年(1336年)に大覚寺統の後醍醐天皇は吉野に落ち延び、京都では持明院統の光明天皇が擁立されて南朝と北朝が並び立ちました。

京都府京都市の妙心寺境内

妙心寺境内

花園法皇の離宮でしたが、建武4年(1337年)に関山慧玄を開山に迎えて禅寺に改められました。

京都府京都市の常照皇寺境内

常照皇寺境内

光厳法皇が貞治元年(1362年)に開山した歴代天皇の帰依を得た皇室ゆかりの寺院です。

室町幕府の成立

南朝方は新田義貞、北畠顕家、楠木正行を中心としていましたが、新田義貞と北畠顕家が戦死すると暦応元年(1338年)に足利尊氏は征夷大将軍となり南朝方は窮地に追い込まれました。南朝方は地方に皇子などを派遣して状況を打開しようとし、中央では足利直義と高師直の対立が激しくなり全国を巻き込む観応の擾乱となりました。

足利義満と北山文化

足利義詮の跡を継いだ三代将軍・足利義満は、永和4年(1378年)に花の御所と呼ばれる室町第を置き、九州の南朝勢力を弱めることに成功して、力を持ちすぎた土岐氏、山名氏、大内氏の力を弱めることに成功しました。明徳の和約により南北朝が合体して南北朝時代が幕を閉じ、応永11年(1404年)に明から日本国王之印が贈られて日明貿易を始め、室町幕府の最盛期を築きあげました。

観阿弥・世阿弥による能の流行

足利義満の時代には、水墨画、茶の湯、立花、猿楽などが盛んになりました。猿楽や田楽から能が発達し、足利義満から保護を受けた観阿弥・世阿弥の親子により芸術性が高い猿楽能が完成しました。

京都府京都市の鹿苑寺(金閣寺)庭園

鹿苑寺(金閣寺)庭園

応永4年(1397年)に足利義満が造営した北山殿を前身として、応永29年(1422年)に夢窓疎石を開山とする禅寺とされました。

京都府京都市の龍安寺方丈庭園

龍安寺方丈庭園

宝徳2年(1450年)に管領細川勝元が徳大寺家の山荘に創建しました。応仁の乱で荒廃しますが、細川改元が復興して細川家の菩提寺となりました。

室町幕府の権威失墜

4代将軍・足利義持から足利義量に将軍職が譲られますが、足利義量が早逝して足利義教が6代将軍となりました。正長元年(1428年)に京都の富裕な土倉・酒屋を襲撃した正長の土一揆が起き、足利義教が赤松満祐・教康父子に暗殺される嘉吉の乱が起こり幕府の権威は失墜しました。嘉吉の乱は山名宗全が鎮圧し、将軍職は足利義勝の早逝を経て足利義政が就任しました。

応仁の乱と東山文化

三管領の畠山氏の家督争いを発端として、応仁元年(1467年)に畠山政長と畠山義就が応仁の乱の開幕戦とされる御霊合戦を起こしました。この背後には細川勝元と山名宗全がおり、やがて細川氏と山名氏の争いに発展しました。細川勝元率いる東軍と山名宗全率いる西軍が各地の大名を巻き込んで戦乱となり、京都は火の海となりました。足利義政は東山に簡素な書院造や石や砂利で作られた枯山水庭園などを配置した山荘を造営し、質素を貴ぶ侘びの文化は東山文化と呼ばれました。

京都府京都市の慈照寺(銀閣寺)旧境内

慈照寺(銀閣寺)旧境内

文明14年(1482年)に足利義政が造営を進めましたが、足利義政が亡くなると菩提を弔うため夢窓疎石を招いて慈照寺と改められました。

京都府京都市の慈照寺(銀閣寺)庭園

慈照寺(銀閣寺)庭園

足利将軍家に仕えた絵師でもある相阿弥が作庭したとされる、方丈前の白砂で造られた銀沙灘と向月台が美しい池泉廻遊式の庭園です。

京都府京都市の真珠庵庭園

真珠庵庭園

一休宗純が創建した寺院で応仁の乱で焼失したのち、延徳3年(1491年)に墨斎和尚と堺の富商祖渓宗臨が再興しました。

京都府京都市の大仙院書院庭園

大仙院庭園

永正6年(1509年)創建の大仙院に設けられた古岳宗亘が作庭した庭園で、石や砂利だけで川の流れを表現する枯山水の代表的な庭園の一つです。

京都府京都市の山科本願寺跡及び南殿跡

山科本願寺跡及び南殿跡

文明10年(1478年)蓮如が造営して寺内町が形成されましたが、天文元年(1532年)に焼失しました。

戦国時代と将軍家

9代将軍・足利義尚は、寺社本所領や近臣領を横領した六角高頼の討伐しますが、陣中で病死して足利義稙が将軍となりました。明応2年(1493年)の明応の政変で細川政元が足利義澄を擁立しましたが、細川政元が暗殺されると事態が急変し、周防国の大内義興の支援を得て将軍に返り咲きました。細川高国により将軍に擁立された足利義晴は、三好長慶の台頭により京都を追われて近江国で病死して足利義輝が将軍となりますが、永禄の変で三好三人衆らに討たれて足利義栄が擁立されました。

京都府京都市の退蔵院庭園

退蔵院庭園

応永11年(1404年)に波多野重通が無因宗因を開山として創建した寺院で、狩野元信の作庭と伝わる枯山水庭園があります。

京都府京都市の船岡山

船岡山

細川澄元は、永正8年(1511年)に室町幕府の政権を奪い返すために入京した細川高国や大内義興らを迎え撃ちましたが、戦いに敗れて逃亡しました。

室町幕府の滅亡

織田信長が美濃国を平定すると、京や近江国を追われていた足利義昭は織田信長を頼り上洛の機会を伺いました。永禄11年(1568年)に織田信長は足利義昭を擁して入京し、足利義昭の御所として二条御所(旧二条城)を造営しました。足利義昭は将軍に就任しましたが、天正元年(1573年)に織田信長は足利義昭を追放し、室町幕府が滅びました。