歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

天下人による安土桃山文化

京都府京都市の豊国神社

織田信長は京都を支配して天下統一の基盤としましたが、本能寺の変で討たれると天下統一の事業は豊臣秀吉へと受け継がれました。豊臣秀吉は京都を大きく改造したほか、聚楽第や伏見城を築いて自らの政権の首都として整備していきました。天下人である織田信長や豊臣秀吉が築いた文化は、安土桃山文化と呼ばれています。

室町幕府の滅亡

織田信長が美濃国を平定すると、京や近江国を追われていた足利義昭は織田信長を頼り上洛の機会を伺いました。永禄11年(1568年)に織田信長は足利義昭を擁して入京し、足利義昭の御所として二条御所(旧二条城)を造営しました。足利義昭は将軍に就任しましたが、天正元年(1573年)に織田信長は足利義昭を追放し、室町幕府が滅びました。

織田信長の天下統一事業

京都を追われた足利義昭は、各地の大名に声を掛けて反信長の活動を続けました。織田信長は家臣を各地方に配置し、それぞれの家臣が各地で戦いを繰り広げました。織田家は毛利氏、武田氏、上杉氏など敵対した勢力に囲まれる状況でしたが、武田信玄や上杉謙信などが死去したことで天下統一へと突き進んでいきました。

南蛮文化

天文19年(1550年)にポルトガル船が長崎・平戸に来航し、イエズス会宣教師ザビエルが京都に来訪しました。ポルトガルとの交易が始まり、西洋の医学や天文学などのほか活版印刷術が伝わりました。天文12年(1543年)に種子島に伝わる鉄砲は戦術に革命をもたらし、天文18年(1549年)のキリスト教の伝来は大名などに大きな影響を与えました。

本能寺の変

天正10年(1582年)、織田信長は中国征伐を進めていた羽柴秀吉の援軍として、安土城を出発して本能寺に入りましたが、明智光秀の謀反により討たれました。信長の死は各地に伝わり関東は北条氏が勢いづきましたが、中国地方の羽柴秀吉は毛利氏と和睦を成立させて、中国大返しで急ぎ畿内へと兵を向けました。羽柴秀吉は明智光秀を山崎の戦いで敗死させました。

京都府京都市の大徳寺境内

大徳寺境内

正和4年(1315)に赤松円心の寄進により大燈国師宗峰妙超禅師が開山した寺院で、一休和尚が復興したのち豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営みました。

豊臣秀吉の全国統一

織田信長死後に信長の後継者について清洲会議を行いますが、羽柴秀吉と柴田勝家が対立するようになりました。天正11年(1583年)に羽柴秀吉が柴田勝家を賤ケ岳の戦いで破り、織田家中での地位を確固たるものとしました。羽柴秀吉は四国の長宗我部氏や中国の毛利氏を従属させると、天正13年(1585年)に関白に就任しました。翌年に豊臣姓を賜ると徳川家康や九州の島津氏を臣従させ、北条氏を滅亡させて全国統一を成し遂げました。

豊臣秀吉の京都改造

天正15年(1587年)に豊臣秀吉は京都の政庁として聚楽第を造営し、京都全体の都市改造に着手しました。天正18年(1590年)に正方形街区の中央に南北の小路を通して二つの短冊形街区に分割し、外敵の侵入や洪水被害を抑えるため御土居を設けたほか、東海道の整備により三条大橋が架橋されました。

京都府京都市の御土居

御土居

外敵の来襲に備える防塁と鴨川の氾濫から市街を守るため、京廻堤と呼ばれる全長23キロに及ぶ堤防が築かれました。

安土桃山文化

軍事拠点として築かれてきた山城は、台地や平地に築かれる平山城や平城へと変遷し、内部には狩野永徳などによる豪華絢爛な障壁画が多く描かれました。大名や豪商から町人まで広がる茶の湯は、千利休は質素さや閑寂の侘びを重んじる侘茶を完成させました。茶の湯の隆盛により庭園の造営が盛んになり茶室も作られました。出雲大社の巫女である出雲阿国は、踊り子として諸国を巡回して京都で歌舞伎踊りを創始しました。

京都府京都市の本願寺大書院庭園

本願寺大書院庭園

聚楽第から移築した豪華絢爛な庭で、中国の聖地を模した豪奢で大胆な枯山水庭園は虎渓の庭で、御影堂を借景にしています。

京都府京都市の聚光院庭園

聚光院庭園

永禄9年(1566年)に三好長慶の菩提を弔うために建てられた寺院で、方丈南の枯山水庭園は千利休が作庭したとされます。

京都府京都市の不審庵(表千家)庭園

不審庵(表千家)庭園

文禄3年(1594年)に千利休の養子・千少庵が千家再興を許されて不審菴を復興し、子の千宗旦を経てその三男・江岑宗左が継承して表千家となりました。

京都府京都市の今日庵(裏千家)庭園

今日庵(裏千家)庭園

正保3年(1646年)に千宗旦が隠居した場所で、千宗旦の四男・仙叟宗室が今日庵を次いで裏千家として独立しました。

京都府京都市の本法寺庭園

本法寺庭園

天正15年(1587年)に現在地に移された寺院で、書院には芸術家・本阿弥光悦作と伝わる三巴の庭が残されています。

文禄・慶長の役と秀吉の死

日本を統一した豊臣秀吉は、中国明の征服を企てて朝鮮へ従属を申し入れますが断られたため、2度にわたり朝鮮に派兵しました。豊臣秀吉は肥前名護屋城を築城して、天正20年(1592年)に文禄の役を起こしました。この頃に豊臣秀頼が誕生し、文禄4年(1595年)に家督を継いでいた豊臣秀次を自害に追いやり、秀次の妻や子を三条河原で処刑されて聚楽第は破壊されました。慶長2年(1597年)に慶長の役となりますが、翌年に豊臣秀吉が伏見城で死去して朝鮮から撤兵しました。

京都府京都市の本願寺境内

本願寺境内

親鸞聖人が没後に娘の覚信尼が現在の知恩院付近に廟を建てて御影堂としたのが起こりとされ、天正19年(1591年)に現在の位置に移りました。

京都府京都市の醍醐寺三宝院庭園

醍醐寺三宝院庭園

応仁の乱で焼失したのち豊臣秀吉が援助して復興しました。三宝院庭園は、慶長3年(1598年)に醍醐の花見を催すために豊臣秀吉が設計しました。

関ヶ原の戦い

豊臣秀吉の死後、台頭してきた徳川家康と秀吉に恩がある石田三成が対立しました。仲介役の前田利家が死去すると、徳川家康が政治の主導権を握るようになり、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こりました。戦いは徳川家康率いる東軍が勝利し、石田三成らは六条河原で処刑されました。