江戸幕府による京の復興

徳川家康による江戸幕府の樹立により、京都は政治の中心としての地位を失いました。それでも京都は全国の文化の中心地であり西陣織などの高級な産物が各地に出荷されました。京都は政治の都である江戸、商業の都である大坂と並んで三都と呼ばれ繁栄を続けました。
豊臣家の滅亡
慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍となり、二条城を造営して幕府の直轄地としました。豊臣秀頼は慶長12年(1607年)に北野天満宮の社殿を造営し、豊臣秀吉が建立した方広寺の再建を行いました。徳川家康は方広寺の鐘銘に刻まれている「国家安康 君臣豊楽」を家康を分断して呪い、豊臣家の再興を祈るものとして言いがかりをつけました。これを契機として、慶長19年(1614年)に大阪冬の陣が起こり、翌年の大阪夏の陣で豊臣家は滅亡しました。

旧二条離宮(二条城)
慶長8年(1603年)に徳川家康が天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城されました。

方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔
豊臣秀吉が建立した方広寺に大仏が安置されましたが、大地震で倒壊した大仏を豊臣秀頼が復興した梵鐘の銘文が大阪の陣の口実を与えました。

旧円徳院庭園
慶長10年(1605年)に創建した寺院で、豊臣秀吉の正室・北政所が化粧殿で晩年を過ごしました。化粧殿は焼失しましたが前庭は残されています。

燕庵庭園
古田織部が義弟にあたる初代・剣仲紹智に茶室燕庵を与え、2代家元・真翁が寛永17年(1640年)に現在地に移転しました。

御室(サクラ)
正保3年(1646年)頃に仁和寺の伽藍が復興されるとき、境内に桜が植えられたことに始まります。
角倉了以の河川開発
内陸に位置する京都は物資の輸送に不便であり、幕府は内陸交通の改善のため、角倉了以に河川開発を依頼しました。慶長11年(1606年)に大堰川(桂川)を開削して丹波との木材運搬を可能とし、慶長16年(1611年)には鴨川に沿って高瀬川を開削し、伏見港から直接水路(運河)による通船を完成させました。

高瀬川一之船入
物流を安定させるために高瀬川と呼ばれる運河が造営され、船入と呼ばれる入り江がいくつも作られました。
小堀遠州の庭園
千利休や古田織部から薫陶を受けた小堀政一は、豊臣秀吉や徳川家康に仕え、慶長13年(1608年)に駿府城の普請を遂行した功績で遠江守を拝領して小堀遠州と呼ばれるようになりました。茶人としてきれい寂と呼ばれる遠州流を確立したほか、多くの庭園などを手掛けるようになりました。

孤篷庵庭園
小堀遠州が自ら設計した茶室や近江八景の庭、書院などが残ります。寛政5年(1793年)に焼失して松江の大名茶人・松平不昧が復元しました。

二条城二之丸庭園
二条城の築城の際に造られたと推測される書院造りの庭園で、池の中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島が配置されています。

高台寺庭園
豊臣秀吉の菩提を弔うため、慶長11年(1606年)に北政所が創建した寺院で、小堀遠州が東山を借景にした池泉回遊式庭園を作庭しました。

金地院庭園
足利義持が北山に創建した寺院で、慶長10年(1605年)に以心崇伝が移築しました。枯山水庭園の鶴亀の庭と茶室八窓席は小堀遠州が手掛けました。

南禅寺方丈庭園
足利義満が定めた京都五山で別格扱いの寺院で、方丈の前に広がる枯山水庭園の虎の児渡しの庭は小堀遠州が手掛けたとされます。

大徳寺方丈庭園
本丈を中心に東庭と南庭の枯山水庭園があり、東庭は小堀遠州、南庭は寛永13年(1636年)に天佑紹杲が作庭したと言われます。

桂春院庭園
慶長3年(1598年)に織田信忠の次男・津田秀則が創建した寺院で、小堀遠州の弟子である玉淵坊が作庭した四つの庭園が残されています。
淀藩の成立
慶長6年(1601年)に徳川家康が再建した伏見城は、豊臣氏の大阪城と対峙する西の拠点となりましたが、2度の大阪の陣で豊臣氏が滅亡すると城の役目を終え、元和9年(1623年)に松平定綱が淀城を築いて統治を始め、享保8年(1723年)に稲葉正知が下総佐倉より移封されました。
石山丈山
徳川家康に仕えた石山丈山は、慶長20年(1615年)の大阪夏の陣で戦功を挙げましたが、軍令に背いたとして論功を受けることができず退官しました。親友の林羅山の勧めで儒学を学び、浅野家に仕えて広島に住みましたが、54歳で京都に戻りました。59歳で詩仙堂に移り、90歳で没するまで生活しました。

石川丈山墓
徳川家康に仕えた武将で、大阪夏の陣で武士を引退して学問に励むようになり、晩年は詩仙堂を築いて隠居生活を送りました。

詩仙堂
寛永18年(1641年)に造営した山荘で、狩野探幽による中国の漢晋唐宋時代の詩人の肖像が掲げられ、枯山水庭園が作庭されています。
寺院の庭園
京都では平安京が造営されてから多くの庭園が造られてきました。江戸時代に参勤交代が行われるようになると、各地との文化の交流が盛んになり、武家や皇族と関係を持つ京都の寺院には多くの寺院に庭園がつくられました。京都の日本庭園は、諸大名が国許に造らせた大名庭の規範となりました。

円通寺庭園
寛永16年(1639年)に後水尾天皇が造営した幡枝離宮にある庭園で、幡枝小御所や幡枝茶園とも呼ばれました。

知恩院方丈庭園
安元元年(1175年)に法然が創建した寺院で、江戸幕府の援助で寛永18年(1641年)に大方丈・小方丈が再建されました。

渉成園
東本願寺の宣如上人が三代将軍徳川家光から土地の寄進を受け、承応2年(1653年)に自らの隠居所として整備を始めました。

妙心寺庭園
日本最大規模の禅刹で狩野探幽の作の天井画の雲龍図が有名です。承応3年(1654年)に上棟した大方丈には前庭があります。

曼殊院書院庭園
比叡山に創建した曼殊院に良尚親王が作庭したもので、移転を繰り返して明暦2年(1656年)に現在地に移転しました。

両足院庭園
龍山徳見が開山した知足院を前身とした両足院にある庭園で、藪内流5代目・藪内竹心が作庭した池泉回遊式庭園は6月下旬から夏にかけて半夏生が白く色づきます。

智積院庭園
豊臣家ゆかりの寺院にある庭園で、延宝2年(1674年)に運敞僧正の指揮により桃山時代の庭園を基に庭園が改修されました。

滴翠園
金閣寺や銀閣寺とともに京都三閣と呼ばれる西本願寺の飛雲閣にある庭園で、明和5年(1768年)に整備されました。
国学や地場産業の発達
明暦時代より西陣織の発展は目覚ましく、元禄元年(1700年)には織屋5千軒、機数1万台に達していたとされます。さらに染物、陶器、漆器、銅器など現在に継承されている伝統産業が最盛期を迎えました。生産された京都の産品は、全国各地で下りものとして珍重されました。

荷田春満旧宅
伏見稲荷の神官である荷田家の居所で、賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤とともに国学四大人に数えられる荷田春満が住んでいました。

伊藤仁斎宅(古義堂)跡ならびに書庫
漢学者・伊藤仁斎の住宅で、仁斎の学問にちなみ古義堂と称しました。伊藤仁斎は朱子学を修めましたが、のちにこれを排して古義学を唱えました。
度重なる災害
宝永5年(1708年)に京都中心部のほとんどが焼失する宝永の大火が起き、享保15年(1730年)に西陣焼けと呼ばれる火災で西陣機業が大打撃を受けました。天明8年(1788年)の天明の大火は京都の歴史上最大の火災となり、天保元年(1830年)の大地震では洛中洛外で700人ほどの犠牲者が出ました。

聖護院旧仮皇居
増誉が創建した常光寺が現在地に移転して聖護院となりました。天明の大火災で光格天皇の仮御所となり、嘉永の大火で孝明天皇と皇子祐宮の仮御所となりました。

青蓮院旧仮御所
久安6年(1150年)に行玄が草創してのちに青蓮院となりました。天明8年(1788年)の大火で後桜町上皇の仮御所となりました。

東海庵書院庭園
書院西庭は東海一連の庭と呼ばれる三神仙島一連の庭を表現した枯山水庭園で、文化11年(1814年)に東睦宗補が作庭しました。

頼山陽書斎(山紫水明処)
文政11年(1828年)に幕末の儒学者である頼山陽が晩年の書斎として築造し、日本政記を完成させました。