江戸幕府の崩壊と幕末の動乱

およそ300年続いた江戸幕府は、欧米列強による圧力で体制が崩れていきました。開国か攘夷かを巡り国論は二分し、長州藩や薩摩藩のほか幕府も京都の天皇が持つ伝統的な権威を担ぐことで自らの勢力の維持を図りました。京都は再び日本の政治都市となり、幕府と対立する諸藩が京都を舞台として政治工作を繰り広げました。
尊王攘夷派と公武合体派
天皇のもとで外国を打ち払おうとする尊王攘夷派と朝廷と幕府の関係を強めて日本を強化する公武合体派に分裂しました。尊王攘夷派は京都で活動していたため、幕府は松平容保を京都守護職に任命して京都の治安維持に当たらせました。松平容保は足利三代将軍の木像を晒し首とした木像梟首事件で取り締まりを強化しました。
八月十八日の政変
尊王攘夷派が勢いづくと、孝明天皇の名を語り暴走するようになりました。孝明天皇は尊王攘夷派を京都から追い出すため、薩摩藩に密かに勅命を出し、薩摩藩は京都守護職として尊王攘夷派を取り締まる会津藩を協力する形で、文久3年(1863年)に八月十八日の政変が起きました。尊王攘夷派の公家や長州藩の志士は京都から追放され、ここで活躍した近藤勇を中心とする任生浪士組は新撰組の名を与えられました。
新撰組と池田屋事件
京都を追われた長州藩の尊王攘夷派の志士は、勢力奪還のため京都に潜伏するようになりました。京都を警護していた新撰組は、長州藩御用達の池田屋を襲撃し、多くの尊王攘夷派が逮捕又は殺害されました。池田屋事件により長州藩の尊王攘夷派は、軍を率いて京都へと上洛していきました。
蛤御門の変(禁門の変)
長州藩の侵攻に対して、朝廷は一橋慶喜に対して長州藩を京都から追い出す命令を下します。長州藩は会津藩を討伐するため、元治元年(1864年)に京都に侵攻して蛤御門の変(禁門の変)となりました。長州藩は会津藩らを攻撃しますが、薩摩藩の到着により押し返されました。この戦闘で発生した火災は風に煽られて京都は火の海と化し、京都市街の3分の2が火災に見舞われてどんどん焼けと呼ばれました。
大政奉還
坂本龍馬らの仲介で薩摩藩と同盟を結んだ長州藩は、軍備を増強して慶応2年(1866年)に第二次長州征討でおよそ25倍の兵力を誇る幕府軍を破りました。幕府の権威は失墜して江戸幕府は崩壊へと向かいましたが、土佐藩の後藤象二郎や坂本龍馬は戦争での倒幕に反対して大政奉還を唱えました。慶応3年(1867年)に徳川慶喜は土佐藩の大政奉還の建白書を受け入れ、二条城で政権を朝廷に戻しましたが、京都では坂本竜馬と中岡慎太郎が近江屋で殺害される近江屋事件が起きました。

岩倉具視幽棲旧宅
岩倉具視が佐幕派と見なされて、元治元年(1864年)から3年ほど隠遁生活しました。

成就院庭園
清水寺の塔頭寺院・成就院に江戸時代初期に築庭された借景式庭園で、幕末には月照や西郷隆盛らが密談を交わしたと伝わります。
王政復古の大号令
徳川慶喜が政権を返上しましたが、速やかに朝廷が政権を運営することができないため、徳川慶喜の体制に変わりありませんでした。薩摩藩と長州藩はクーデターを起こし、慶応3年(1868年)に明治天皇による王政復古の大号令が発出されました。日本は江戸幕府が滅亡し、明治天皇を中心とする新政府が樹立しました。
戊辰戦争
王政復古の大号令で江戸幕府が滅亡すると、旧幕府側はこれを不当として慶応4年(1868年)に鳥羽伏見で戦いとなりました。新政府軍は天皇の旗である錦の御旗を掲げ、戦いは新政府軍が勝利して徳川慶喜は大阪から江戸へと逃亡して寛永寺で謹慎しました。やがて江戸城は無血開城し、東北戦争や函館戦争で旧幕府軍は壊滅しました。