鹿足郡

鹿足郡は島根県の西端に位置し、津和野町と吉賀町で構成されます。険しい山に囲まれた中山間地域で、高津川とその支流に沿いに耕地が広がります。清らかな水で育てられた吉賀米は津和野藩主の御用米となりました。 津和野は山陰の小京都と呼ばれた
概要
- 面積
- 643.53km2
- 人口
- 12,666人(2021年10月1日)
- 含む町村
- 津和野町、吉賀町
- 地図
歴史
旧石器時代から人が生活していた地域で、鎌倉時代に吉見氏が統治するようになりました。山陰街道の開削などで文化が入り、伝統芸能の鷺舞が生まれました。津和野城の城下町として発展し、なまこ壁の武家屋敷や藩校養老館跡などの町並みは山陰の小京都と呼ばれています。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
喜時雨遺跡から後期旧石器時代のものと思われる石器が発見されています。縄文時代から弥生時代の遺跡も多く残り、縄文時代早期の山崎遺跡をはじめ高田遺跡や大蔭遺跡などがあります。

青野山
トロイデ型の火山で小青野など十数個の火山群から構成されます。火山北側の中腹には津和野藩亀井氏時代には藩兵の練兵場となりました。
古墳時代、飛鳥時代
古墳は鍛冶原古墳と社地脇古墳の2基しか確認されていませんが、山口と山陰地方の文化が交差する地域でした。8世紀頃に筑紫国から悪鹿が来襲してこれを退治して怨念を鎮めるため、吉賀町は悪鹿から吉賀と名付けられたとされます。
奈良時代、平安時代
律令制下では能濃郷と呼ばれ石見国美濃郡に属していましたが、承和10年(843年)に吉賀郷とともに美濃郡から独立して鹿足郡となりました。大婦け遺跡からは腰帯金具の銅銙、木簡、墨書土器が出土しており、この時代の官衙跡と推定されています。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉時代に入ると佐兵衛尉が地頭代となりました。鎌倉時代後期の元寇により日本海沿岸の防衛を強化するため、弘安5年(1282年)に吉見頼行が津和野に派遣されました。吉見氏は木曽野に館を構え、永仁3年(1295年)に中荒城を築城しました。弘安期から吉見氏の物頭を務めていた堀新左衛門が笹ヶ谷銅山などで採掘を始めました。
室町時代、安土桃山時代
吉見正頼が大内義隆の姉である大宮姫を正室として迎え、大内家と姻戚関係を結び支配の確立を図りました。大内義隆が家臣の陶晴賢の下克上により自刃に追い込まれると、多くの家臣が陶晴賢に転じますが、吉見正頼は最後まで抵抗しました。天文23年(1554年)に陶軍が津和野城を攻めますが、3カ月に及ぶ籠城戦で陶軍を退けました。吉見氏は毛利家に従い、陶氏討伐に従軍して功績を挙げています。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで吉見氏は毛利氏に従い西軍に与しますが、西軍は敗退して毛利氏が周防国、長門国の2国に減封されたため、吉見氏は当地を離れて坂崎直盛に与えられました。

津和野城跡
正中元年(1324年)に吉見頼行・頼直が築城したと伝わります。関ヶ原の戦いのあとに坂崎直盛が近世城郭へと大改修して、のちの亀井氏が居城としました。

鷺舞
弥栄神社の疫病除けの祭りで、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。京都祇園会で発祥した神事で、吉見正頼の統治時代に京都から山口を経て伝えられました。

鷲原八幡宮流鏑馬馬場
鷲原八幡宮境内にある全長243メートルの広大な流鏑馬の馬場で、吉見氏が統治時代に鎌倉の鶴岡八幡宮の馬場を模してつくられました。
江戸時代
坂崎直盛が津和野藩を立藩して城下町を整備拡張し、山陰街道を開削して城下町に人を引き込む政策が行われました。元和3年(1617年)に津和野藩主となる亀井政矩は、山陰街道と津和野街道の起点に津和野城下町を整備しました。津和野藩は筆頭家老・多胡氏を中心に産業開発や教育振興が図られ、鮎、わさび、源氏巻、和紙、まめ茶などの産業を生み出しました。
千姫誘拐未遂事件
元和2年(1616年)の大阪の陣で、坂崎直盛は豊臣秀吉の正室で2代将軍徳川秀忠の娘・千姫を大阪城から救出しましました。千姫は救助した者に与えられる約束がありましたが、徳川家康は再嫁の約束を反古にしました。坂崎直盛は千姫の誘拐計画を画策したとされ、計画が露呈して自刃に追い込まれて坂崎家は断絶しました。

津和野城下町
津和野藩の城下として栄え、山陰の小京都と呼ばれました。商家や酒蔵が並ぶ本町通りと掘割に色鮮やかな鯉が泳ぐ殿町通りを中心としています。

津和野藩主亀井茲矩墓
津和野藩初代藩主となる亀井政矩は永明寺を菩提寺としました。亀井政矩の父である亀井茲矩の墓は鳥取市だけでなく永明寺にも置かれました。

山陰道(徳城峠越)
山陰から人や物資の往来の動脈として機能しました。峠の頂部からは遠く日本海が眺められ、津和野のシンボルである青野山も見えます。

山陰道(野坂峠越)
津和野から長州藩につながる街道で、関所や茶屋などが設けられていました。慶応2年(1866年)の第二次長州征伐の舞台ともなりました。

太皷谷稲成神社
津和野藩7代藩主・亀井矩貞が城の鎮護と領民の安穏を願い、安永2年(1773年)に創建しました。竹駒稲荷、笠間稲荷、伏見稲荷、祐徳稲荷とともに日本五大稲荷とされます。

多胡家表門
津和野藩筆頭家老を務めた多胡家の表門で、殿町通りに面しています。嘉永6年(1853年)の大火で焼失し、安政7年(1860年)に再建されました。

津和野藩校養老館
天明6年(1786年)に8代藩主・亀井矩賢が創設した藩校で、漢学や兵学などが学ばれました。11代藩主・亀井茲監が規模を拡大して国学や蘭医学も学ばれています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で浜田県に属し、明治9年(1876年)に島根県に編入されました。堀氏が採掘していた笹ヶ谷銅山は、大正9年(1920年)に堀鉱業株式会社に引き継がれましたが、昭和24年(1949年)に廃山となりました。

西周旧居
養老館儒学科の教官である西周は、徳川慶喜の下で議題草案を執筆しました。明治維新後は私塾で西洋哲学を紹介し、明六雑誌を発表するなど日本近代哲学の祖となりました。

森鷗外旧宅
森鴎外は養老館最後の在校生で、優等生として賞を得ました。文学博士や軍医総監として大成し、近代日本の文豪として名前を残しました。

旧堀氏庭園
堀家は銅山経営を実業してきた家柄で、笹ヶ谷銅山をはじめ近隣の鉱山の多くを経営しました。明治30年(1897年)に15代堀藤十郎が作庭した庭園です。