福島氏の改易と浅野氏の治世

戦国時代末期に豊臣秀吉が天下を治めると、五大老となる毛利輝元が広島城を築城して城下町を整備しました。江戸時代になると福島氏から浅野氏が統治するようになり、交通の要衝として発展していきました。幕末には安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩として、幕府と諸藩の架け橋としての役目を担いました。
毛利輝元による広島城の築城
吉田郡山城を本拠としていた毛利氏は、支配領域の拡大に伴い城が手狭となりました。天正17年(1589年)に毛利輝元は祖父の毛利元就が目を付けていた交通の良い広島湾頭の平地に築城を始め、広島と名付けて本拠を移しました。

広島城
大阪城を参考として毛利輝元が築城を始め、天正19年(1591年)に毛利輝元は広島城に入城して本拠としました。

広島城の石垣
脆弱な地盤のため工事は難航し、毛利輝元が入城してからも工事は進められ、慶長4年(1599年)に石垣を完成させています。
福島正則による城下町の整備
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍の総大将として参戦した毛利輝元は、その敗戦処理により周防国と長門国に転封されました。広島城には関ケ原の戦いで戦功を挙げた福島正則が入り城下町を整備して広島市の基礎を築きました。福島正則は、石垣職人の穴太衆を雇い入れて広島城の大規模な改修工事に着手しましたが、度を越えていた改修で福島正則は徳川家康から謹慎を言い渡されています。
福島正則の改易
元和5年(1619年)に広島城本丸や二ノ丸、石垣などが台風で被害を受けると、福島正則は幕府に修復の許可申請を申し出ましたが、幕府は許可を下ろしませんでした。福島正則は許可が無いまま広島城の修復工事を開始したため、2代将軍徳川秀忠は修理箇所の破却を条件に許しますが、福島正則は破却を一部に限定したため、武家諸法度違反として改易されました。

広島城表門
二ノ丸の正面玄関にあたる表門で、平成元年(1989年)の改修で再建されました。

二の丸表門と太鼓櫓
二ノ丸防衛の要として機能していた櫓群と門で、平成元年(1989年)の改修で再建されました。
浅野長晟の入城
元和5年(1619年)に浅野長晟が紀伊国から広島城に入城しました。浅野家は織田信長や豊臣秀吉に仕え、秀吉の頃には五奉行を務めましたが、徳川家康の娘を嫁に迎えて徳川家と姻戚関係を結んでいたため、毛利氏の抑えとして広島城に置かれたと言われます。
縮景園
浅野長晟は茶人で家老の上田宗箇に命じて、元和6年(1620年)から別邸の庭園築成をはじめました。別邸は泉水屋敷と名付けられ、明治時代から戦中まで泉邸と呼ばれました。縮景園の名称は、2代藩主浅野光晟に招かれた儒学者・林羅山が「海山をその地に縮め風景をこの楼に聚む」と詠んだことから名付けられています。

縮景園
宝暦8年(1758年)に宝暦の大火で多くの建物が焼失し、7代藩主浅野重晟は宝暦10年(1760年)に縮景園の復旧に努めました。

縮景園
天明3年(1783年)から京都の庭師清水七郎右衛門が天明の大改修を行い、頼春水らが文化元年(1804年)に園内名勝34景に名称を付与しています。
赤穂事件と藩財政の悪化
元禄14年(1701年)に赤穂藩主・浅野長矩が吉良義央に斬りかかり切腹する江戸城松之大廊下事件が起こると、4代藩主浅野綱長は、この事件が主家に飛び火することを恐れて赤穂藩へ広島藩士を送り込み開城するよう圧力をかけました。赤穂浪士が討ち入りを果たすと、広島藩は大石内蔵助の三男・大石大三郎ら旧赤穂藩士を召し抱えたほか赤穂藩の借金を肩代わりして面倒を見ています。
中興の祖・浅野吉長
広島藩は赤穂藩の借金を肩代わりで財政が苦しくなりましたが、5代藩主浅野吉長は、享保10年(1725年)に講学所を設立して京都の山崎闇斎の高弟・植田艮背を招いて神儒学の教育をはじめました。寛延2年(1748年)には浅野吉長の命を受けた藩儒の堀正脩が湯ノ山温泉に来遊して霊泉記を記したほか、和田村の役人が湯の山温泉霊験記を記したことで、評判が広く伝わり多くの人が湯治に訪れるようになりました。

植田艮背墓
植田艮背は藩士のみならず、学問に関心を寄せる富裕町人の教育にも当たり藩内の教育を普及させています。

湯之山旧湯治場
堀正脩の霊泉記により領内領外よりの入湯者が訪れるようになり、37軒の宿屋が慌ただしく建設されるなど活況となりました。
広島藩の藩政改革
広島藩は凶作や延暦寺の修復普請などでさらに財政が悪化しており、6代藩主浅野宗恒は能力に応じた家禄の支給や世襲制の廃止などの改革を行い藩財政を好転させました。後に続く藩主たちも浅野宗恒の改革を継続して絹や油の製造などを推進して広島藩の財政は安定していきました。

頼家之墓
天明元年(1781年)に広島藩が学問所を創設するにあたり、儒学者の頼春水は頼山陽を伴い大阪から広島に移住しました。頼春水、梅飃夫妻を初め頼一族が眠ります。

頼山陽居室
寛政12年(1800年)に脱藩して京都に行きますが、連れ戻されて幽閉されました。頼山陽が著した武家の興亡の歴史を記した日本外史は幕末の志士たちに多大な影響を与えました。
幕末の広島藩
幕末になると、11代藩主浅野長訓は改革派の辻将曹を登用して藩政改革を行い、洋式軍備も取り入れました。攘夷運動と倒幕運動を進める長州藩に対して幕府が長州征伐を行うと、元治元年(1864年)の第一次長州戦争や慶応元年(1865年)の第二次長州戦争で広島城が幕府軍の最前線基地となりました。広島藩は長州征伐に否定的で、長州征伐後は幕府を見限り薩摩藩や土佐藩と連携するようになりましたが、徳川慶喜の大政奉還を推進したため倒幕の密勅から外されました。