歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

太平洋戦争と原爆遺産

広島県広島市の原爆ドーム

明治時代になり中国地方第一の軍都となる広島市は、第二次世界大戦で大規模な空襲が起こらずほぼ無傷でした。こうした状況と地形的な特徴から原爆が投下され、多くの犠牲や被害を受けました。原爆が投下されても倒壊を免れた原爆ドームは、戦争と原爆の悲惨さを物語り平和へのメッセージを発信し続けます。

軍都広島の誕生

江戸時代に中国、四国地方の第一の城下町として栄えていた広島市は、のちに陸軍第五師団となる広島鎮台が設置されました。兵士や軍馬の食料調達及び補給を担当する宇品陸軍糧秣支廠などが建てられ、比治山には第五師団に所属して戦死した人を葬る陸軍墓地が造営されるなど、中国地方最大の軍都となりました。

広島県広島市の広島大本営跡

広島大本営跡

日清戦争では東京から広島まで鉄道が敷設され、軍港である宇品港と呉鎮守府に近い立地から、広島城内に大本営が設けられて明治天皇が移住しました。

広島県広島市の戦前の相生橋

戦前の相生橋

明治37年(1904年)に始まる日露戦争など相次ぐ戦争では、宇品港から多くの兵員・物資が戦地へ送り出されるなど軍都として繁栄しました。

広島県物産陳列館

大正4年(1915年)に県内産製品の開発、品質向上、販路拡大のための拠点施設として広島県物産陳列館が建造されました。チェコ人建築家ヤン・レツルが設計した建物は当時としては珍しい煉瓦造3階建で、正面中央部分は5階建ての階段室、その上に楕円形のドームが取り付けられました。

広島県広島市の広島県物産陳列館

広島県物産陳列館

当時としては珍しい煉瓦造の建物で、昭和19年(1944年)から内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材株式会社など官公庁等の事務所として使用されました。

広島県広島市の広島県物産陳列館

広島県物産陳列館

美術展や博覧会などの会場としても利用されましたが、戦争が激しくなると展示が縮小されました。

太平洋戦争

太平洋戦争が昭和16年(1941年)に始まると、やがて戦局は悪化して日本各地で空襲されました。広島市は昭和19年(1944年)から焼夷弾攻撃等による火災の延焼を防ぐため建物の強制疎開を6次にわたり行い、昭和20年(1945年)から集団疎開や縁故疎開により約2万3千人の学童を県北の山間部へ疎開させました。広島市は軍事施設や工場が集中していましたが、大規模な空襲はなく無傷な状態のまま残されていました。

原子爆弾の投下

軍需工場などが無傷な状態で集中し、都市の大きさや地形的にも原爆の破壊力を実験するのに適当と判断された広島市は、昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分に世界で初めて原子爆弾が投下されました。爆心地付近は3~4千度に達して何もかも焼き尽くされ、1~2時間が経過すると爆風でチリや煤が巻き上げられて黒い雲が立ち上り、放射性物質が混ざる黒い雨が降り注ぎました。黒い雨は池や川の魚を死に至らしめ、汚染された井戸水は人びとに深刻な影響を与え、およそ14万人が命を落としました。広島の街はほぼ壊滅状態となり、当時は爆風と放射線で75年間は草木が生えないと言われました。

広島県広島市の旧日本銀行広島支店

旧日本銀行広島支店

広島の昭和初期を代表する歴史的建築物で、爆心地から380メートルと近距離で被爆しながらも堅牢性から建設当時の姿を現在も残しています。

広島県広島市の袋町小学校平和資料館

袋町小学校平和資料館

鉄筋コンクリート3階建の校舎で原爆によって外形だけを残して焼失しました。校舎は避難場所や救護所として使用され、人びとの安否を尋ねる場となりました。

広島県広島市の本川小学校平和資料館

本川小学校平和資料館

広島市内の公立小学校として初の鉄筋コンクリート造3階建ての校舎で、原爆で外形だけを残して完全に焼失しました。

原爆ドーム

原子爆弾は広島県物産陳列館の東方約150メートル、高さ580メートルほどで爆発して、広島県物産陳列館は大破、全焼して職員30名は全員即死しました。

広島県広島市の原爆ドーム

原爆ドーム

1平方メートルあたり25トン、風速は440メートルという凄まじい爆風でしたが、ほぼ真上で爆発したため天井のドームが圧力を分散して持ちこたえました。

広島県広島市の原爆ドーム

原爆ドーム

第二次世界大戦が終結してから誰が名づけた訳でもなく広島県物産陳列館は原爆ドームと呼ばれるようになり、戦争の悲惨さを物語る象徴となりました。

平和への願いと世界遺産登録

広島県広島市の平和記念公園

平和記念公園

昭和24年(1949年)に広島平和記念都市建設法が衆参両院満場一致で可決され、丹下健三らの共同作品が平和記念公園の設計図に決まりました。

広島県広島市の原爆の子の像

原爆の子の像

2歳で被爆した佐々木禎子氏は原爆後遺症で11歳で白血病を患い、8カ月の闘病の末にこの世を去りました。禎子氏の同級生たちは被爆した子供たちのために像を建てました。

広島県広島市の原爆ドーム

原爆ドーム

解体と保存で意見が割れていた原爆ドームは、丹下健三による嘆願書提出や原爆の子の像の除幕2周年で梶山ヒロ子氏の日記が朗読されて保存へと向かいました。

広島県広島市の広島平和記念資料館

広島平和記念資料館

原爆で散乱した瓦礫などの遺品を収集して原爆参考資料陳列室で展示した地質学者の長岡省吾は、昭和30年(1955年)に開館した平和記念資料館の初代館長を務めました。