宇部市

宇部市は本州西端の山口県の南西部に位置し、南は瀬戸内海に面しています。温暖で雨が比較的少ない瀬戸内海式気候で丘陵地には豊かな自然があふれ、南に面する瀬戸内海の海産物など山と海の幸に恵まれています。明治期の石炭産業を基盤として化学工業が発展し、瀬戸内有数の臨海工業地帯を形成しています。
概要
- 面積
- 287.05km2
- 人口
- 154,257人(2025年8月1日)
- 市の木
- くすのき
- 市の花
- サルビア・ツツジ
- 市の彫刻
- 蟻の城
- 地図
歴史
寒村の宇部地域は、明治時代に石炭産業が本格的に展開したことで大きく変化しました。石炭産業の発展により人口が増加し、宇部村から町制を経ずに宇部市となりました。石炭産業による大気汚染など公害問題は独自の宇部方式で環境改善に取り組み、緑と花と彫刻のまちとして知られるようになりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
宇部市域は古くから人の営みが残されており、常盤湖周辺や西岐波の台地の長桝遺跡や南方遺跡で旧石器時代の石器類が見つかりました。縄文時代には月崎遺跡などに定住し、狩猟・採集・漁労の生活を営みました。稲作が伝わると、北迫遺跡で住居跡のほか炭化米が見つかり、畑作中心の農耕をして生活していたと考えられています。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代中期から松崎古墳や若宮古墳群など築造されるようになり、松崎古墳から角縁神獣鏡が出土して大和王権との深い関わりがありました。6世紀後半には須恵器を焼いた花ケ池窯跡があり、古墳時代中期から奈良時代にかけて波雁ケ浜遺跡で製塩が行われました。
奈良時代、平安時代
平安時代後期に厚東氏が厚狭郡東部に本拠地を置いて勢力を拡げました。治承・寿永の乱において、厚東氏は平家に与して一ノ谷の戦いに加わりましたが、寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで源氏に与したことで厚東郡主となりました。
鎌倉時代、南北朝時代
厚東武光は鎌倉幕府の御家人となり、蒙古襲来に伴う文永の役や弘安の役に参戦しました。鎌倉幕府討伐に参戦した厚東武実は、建武元年(1334年)に長門国守護職に任ぜられました。厚東氏は周防国の大内氏と協調して北朝方として足利尊氏を助けましたが、大内氏の勢力が強大になるにつれて圧迫されていきました。

宗隣寺庭園
平安時代に唐僧・為光が創建した普済寺には、南北朝時代に県内最古の龍心庭と呼ばれる庭園が造られました。普済寺の跡地には福原広俊が父の菩提を弔うため宗隣寺が建立されました。
室町時代、安土桃山時代
正平13年(1358年)に周防国守護の大内弘世が霜降城を攻め、厚東義武は豊前国企救郡に逃れました。大内弘世は周防国と長門国の守護を兼任することとなり、大内家は最盛期を築いていきました。天文20年(1551年)に家臣の陶晴賢が大寧寺の変を起こして大内氏が滅亡すると、毛利氏の支配下に入りました。

霜降城跡
治承3年(1179年)に厚東武光が霜降山の三連峰上に築城した山城です。厚東氏が滅亡してからは城として使用されなくなり、空堀や土塁が残されています。

荒滝山城跡
荒滝山山頂を中心に築かれた中世の山城跡で、大内氏長門守護代を務めた内藤隆春が居城としました。連郭式の構築で、郭や堀切、竪堀などの遺構が残ります。
江戸時代
寛永2年(1625年)に萩藩毛利氏の家老・福原元俊が所領を得て、福原氏が幕末まで領主を務めました。元禄8年(1695年)の鵜ノ島開作、元禄11年(1698年)に常盤池の築造、寛政10年(1798年)の真締川の付け替えが行われています。福原親俊が文武の稽古場として創設した晩成舎は、弘化2年(1845年)に菁莪堂と称しました。福原越後は菁莪堂を廃して維新館を建てるなど教育に熱心でしたが、元治元年(1864年)の禁門の変で責任を取り自害しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治9年(1876年)に最後の領主・福原良道は石炭の採掘権を買い戻し、地元資本による炭鉱経営の基礎を築きました。宇部炭鉱により人口が増加し、大正10年(1921年)に宇部市が誕生しました。昭和17年(1942年)に宇部興産株式会社が設立しますが、昭和20年(1945年)に空襲で市街地の中心部が焼失しました。昭和42年(1967年)に宇部鉱業所が閉山となり、石炭産業から化学工業に移行して全国屈指の工業都市として発展しました。平成8年(1996年)には宇部空港が開港しました。

大棚トンネル
大正15年(1926年)に完成した石積みで煉瓦アーチ造りの船木鉄道のトンネルです。昭和19年(1944年)に線路が鉄として供出したため廃線になりました。

藤河内茶園
小野湖の近くの丘陵にある西日本最大級の茶畑です。30万坪の広大な茶畑ではほどよい苦みと渋みを併せ持つ山口茶が生産されています。