岩国市

岩国市は山口県東部に位置し、山口県最大の河川である錦川が瀬戸内海に注いでいます。豊かな自然に恵まれ、南部の玖珂盆地には工業団地が形成しています。岩国城跡や錦川に架かる錦帯橋など多くの観光資源に恵まれ、市域中央から山代地域には温泉や自然景勝地などがあります。
概要
- 面積
- 873.72km2
- 人口
- 127,414人(2021年11月1日)
- 地図
歴史
戦国時代に周防国や長門国に侵攻した毛利氏の支配下に置かれ、江戸時代に毛利支藩の吉川岩国領となりました。岩国城下町として整備され、錦川下流では干拓が進んだほか今津など港が整備されて廻船業が発達しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代の遺跡が錦地域の宇佐平遺跡、 冠遺跡、周東地域の用田遺跡などで確認されています。縄文時代早期には周東地域の用田遺跡、河池遺跡で押型文土器が出土しています。弥生時代には前期の筏山遺跡、中期の建立寺遺跡、大円寺山遺跡、河池遺跡、柳井田遺跡などが確認され、後期の清水遺跡は高地性集落として知られています。

寂地峡
寂地山から流れる寂地川にあり、犬戻峡と竜ヶ岳峡を総称して寂地峡といいます。連続する5つの滝は寂地峡五竜の滝と呼ばれています。

弥栄峡
小瀬川の上流にある渓谷で、黒雲母花崗岩が風化浸蝕で削れられて形成しました。岩肌は相互にずれのない節理と呼ばれる割れ目が顕著です。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代の前期末から中期初頭には玖珂地域で筏山古墳がつくられました。中期には周東地域の用田古墳群の用田3号墳では把手付椀、玖珂地域の大田遺跡では陶質土器の高坏が出土しており、朝鮮半島とのつながりが伺えます。後期には、周東地域では北方古墳、玖珂地域では臼田古墳など、市域の西部を中心に横穴式石室を有する古墳が展開します。
奈良時代、平安時代
古代山陽道が整備され石国駅家と野口駅家の二駅が置かれました。平安時代から石国荘が成立し、石国氏が力を持つようになりました。石国氏は平氏と結びつき勢力を拡大していきました。石国氏が没落すると、のちに弘中氏と名乗る清縄氏が台頭しました。
鎌倉時代、南北朝時代
南部の由良地域は石国氏の末裔である神代氏が勢力を持ちました。柱島は下鴨神社の荘園でしたが、忽那義範が南朝から地頭職を与えられ、のちに能島村上氏に従う桑原氏が勢力を伸ばしました。
室町時代、安土桃山時代
弘中氏は白崎八幡宮の中津居館を拠点に勢力を伸ばしていましたが、弘治元年(1555年)に毛利元就が周防・長門への侵攻をはじめ、毛利氏の支配を受けるようになりました。
江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで敗れた毛利家が広島城から萩城へ移封となり、これに伴い吉川広家が米子から岩国へ移り毛利支藩の吉川岩国領として統治しました。山陽道が整備されて本陣が置かれる宿場町を形成し、弘化4年(1847年)には12代領主吉川経幹により養老館が建てられるなど、吉川家居館を中心に城下町が形成されました。錦川下流では干拓が進んだほか、今津など港が整備されて廻船業が発達し、北部では紙生産が盛んに行われて岩国半紙として有名になりました。

岩国城
吉川広家が慶長13年(1608年)に築城しますが、元和元年(1615年)の一国一城令により7年で取り壊しとなりました。

吉香神社
吉川氏は3万7千石ありましたが大名と認められず、一国一城令により岩国城は廃城となり、この地に役所が置かれました。

岩国藩主吉川家墓所
6代吉川経永を除いて、初代吉川広家から12代吉川経幹までの当主及び一族の墓が51基並んでいます。

中ノ川山一里塚
山代街道沿いに設置された25基の一里塚のひとつで、萩城下唐樋札場から24番目にあたります。17世紀中頃には築かれていたと考えられています。

錦帯橋
延宝元年(1673年)に3代吉川広嘉が児玉九郎右衛門に命じて築造した木造アーチ橋で、日本三名橋や日本三大奇橋に数えられています。

松巖院庭園
江戸時代前半に臨済宗天龍寺末寺として創建した松巌院に造営された平庭式枯山水庭園と池泉回遊式庭園で、19世紀前半に月溪和尚が作庭したとされます。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治元年(1968年)に岩国領は岩国藩として認可されましたが、明治4年(1871年)の廃藩置県により岩国県になり、間もなく山口県に統合されました。明治6年(1873)の製糸工場が開設したのを皮切りに昭和時代に学繊維工場や製紙工場が立地して、昭和33年(1958年)に大規模な石油化学コンビナートが稼働して工業都市となりました。