美祢市

美祢市は山口県の西部のほぼ中央に位置し、高原地で海に面していません。日本最大級のカルスト台地の秋吉台、日本屈指の大鍾乳洞の秋芳洞をはじめ天然記念物の景清洞や大正洞、日本名水百選の別府弁天池など豊かな自然環境が魅力です。
概要
- 面積
- 472.64km2
- 人口
- 22,662人(2021年11月1日)
- 市の木
- かし
- 市の花
- さくら
- 地図
歴史
日本最大のカルスト台地である秋吉台を有することで、古くから銅の採掘や精錬が行われ、セメントの原料となる石灰石が豊富に産出することで工業都市として発展しました。幕末には高杉晋作が創設した奇兵隊が活躍して明治維新へ向かう地となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
日本最大のカルスト台地である秋吉台は、3億5千万年かけて現在の姿になりました。嘉万盆地北端の沖積低地にある国秀遺跡から縄文時代晩期の人の営みが確認され、弥生時代には砂地岡遺跡や道場・中村遺跡から集落跡が見つかりました。

秋吉台
風雨で石灰岩が溶けた窪地をドリーネと呼び、さらに浸食が進み複数のドリーネが結合してウバーレを形成し、さらに溶けて平野状の地形をポリエと呼びます。

秋吉洞
東洋屈指の鍾乳洞で、100年で1センチ成長した鍾乳石と石灰分が皿状に沈殿した石灰華段丘が形成しています。
古墳時代、飛鳥時代
縄文時代晩期から人の営みが残る国秀遺跡には、古墳時代後期から奈良時代前半にかけて120軒にも及ぶ掘立柱建物が建てられ、統一新羅系土器の無蓋高杯のほか銅鉱石や鞴羽口などの銅精錬の跡が見つかりました。
奈良時代、平安時代
最北端に位置する於福は交通の要衝で古代駅舎が置かれました。銅の採掘が市域の各地で行われ、於福金山遺跡や長登銅山跡では銅の採掘と精錬が行われました。周防国大内県を与えられた琳聖太子は多々良氏を名乗り周防国衙の役人を務め、やがて大内氏を名乗り周防国の実質的な支配者となりました。

長登銅山跡
奈良時代から平安時代にかけて国直轄の採銅所が置かれた日本最古の銅山跡で、採掘された銅は創建時の奈良の大仏に使われました。

末原窯跡群
奈良時代後半から平安時代初期にかけて使用された典型的な須恵器窯跡群で、多くの瓦が焼かれて登窯の構築技術が進歩しました。
鎌倉時代、南北朝時代
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、その恩賞で藤原秀通が入り青景氏を名乗り、秋吉台の景清洞は平景清がに隠れ住んで平家再興に努めた伝承が残ります。長門国守護を務めた佐々木定綱の七男・佐々木行綱の子孫が所領を得て伊佐氏を名乗りました。
室町時代、安土桃山時代
室町時代初期に高さ10メートルの岩窟の壁面に石屋形羅漢山磨崖仏が線刻されました。青景隆著は陶晴賢と結び、天文20年(1551年)に大内義隆を自害に追い込む大寧寺の変の切欠を作りました。弘治元年(1555年)に厳島の戦いで陶晴賢が敗死すると、青景氏は姓を廃しこの地を去りました。
江戸時代
寛永2年(1625年)に於福町に知行を得た志道就幸は、徳明院跡の裏手に墓所としました。慶応元年(1865年)に長州藩政府軍と高杉晋作が率いる諸隊が戦闘となり大田・絵堂の戦いが起こりました。この戦いで高杉晋作が創設した奇兵隊が活躍し、明治維新発祥の戦いと呼ばれています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治10年(1877年)頃に大嶺炭田の無煙炭が発見され、明治37年(1904年)に海軍が買収して海軍直営鉱山となりました。さらにセメントの原料となる石灰石が豊富に産出することから、工業都市として発展しました。

花の山製錬所
明治22年(1889年)に鳥取県の堀藤十郎札造が鉱山権を取得し、明治38年(1905年)に開設されました。