歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

高松松平藩の歩み

香川県高松市の高松城跡(玉藻公園)

豊臣秀吉から讃岐国を与えられた生駒親正は、日本三大水城と名高い高松城を築いて江戸時代に高松藩主となりました。生駒家が生駒騒動で改易されると松平家が藩主となりました。高松松平藩は水不足による干ばつに悩みながらも砂糖の製造に成功するなど、現在にもつながる地場産業を振興しました。

生駒親正と高松城の築城

織田信長に仕えた生駒親正は、織田信長の命で羽柴秀吉の与力となりました。天正10年(1582年)の本能寺の変で織田信長が討たれると羽柴秀吉に仕えるようになり、忠節を尽くして各地を転戦するなか天正15年(1587年)に讃岐一国を与えられました。生駒親正は天正16年(1588年)に高松城(玉藻城)の築城を始めました。城下町を整備して現在の高松港となる内町港を築造しました。

生駒騒動と改易

4代藩主生駒高俊は、老中・土井利勝の娘を妻に迎えて家中は安泰に思えましたが、風流遊びにふけて政務を怠りました。新参の家老・前野助左衛門と石崎若狭が藩政を我が物とし、旧臣の主席家老・生駒将監らと激しく対立するようになりました。生駒騒動と呼ばれる家中の争いは幕府が知ることとなり、寛永17年(1640年)に生駒高俊は讃岐国を召し上げられ出羽国矢島1万石に移されました。

香川県高松市の玉藻公園東門(大手門)

旭橋と東門(大手門)

生駒親正は築城名人として知られ、築城した高松城は海に張り出す水城として、四国最大規模の天守を誇りました。

香川県高松市の生駒親正夫妻墓所(弘憲寺)

生駒親正夫妻墓所(弘憲寺)

慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで家臣を西軍として出陣させたため、東軍として参戦した嫡男・生駒一正に家督を譲り、自身は出家して高野山に蟄居しました。

高松松平藩の藩政

生駒氏が改易されて、寛永19年(1642年)に徳川光圀の兄で常陸国下館藩主の松平頼重が高松松平藩主となりました。2代藩主松平賴常は元禄8年(1695年)に厳しい倹約令を定めて藩財政を立て直しつつも、一翁宗守を招いて茶道指南役とし、元禄16年(1703年)には講堂を建設して儒学者の松下見林を招聘して学問を奨励しました。

倹約令による財政再建

3代藩主松平賴豊は風水害や流行病などが相次ぎ、享保の大飢饉の被害も重なることで藩財政が窮乏しました。松平賴豊は藩士の知行を削減して財政再建と出費抑制に努め、跡を継いだ4代藩主松平賴桓もこの路線を継承して財政緊縮に努めました。

栗林荘と白糖の製造

16世紀後半に豪族佐藤氏の小さな庭は、生駒家臣・西嶋八兵衛により治水工事が行われ、高松松平藩の初代松平頼重が栗林荘の造営を始めました。5代藩主・松平頼恭は平賀源内を登用して栗林荘で薬草の栽培を行い、池田玄丈に砂糖の研究を指示してその弟子の向山周慶が白糖の製造に成功しました。さらに塩田開発を行い殖産の奨励したことで、塩と砂糖は二白として藩の財政を支えました。

香川県高松市の高松城跡天守台跡

天守台跡

松平頼重は寛永21年(1644年)から大規模な城の修築を始め、寛文10年(1670年)には天守を改築し、翌年には新たに東ノ丸、北ノ丸を造営しました。

香川県高松市の高松藩主松平家墓所(法然寺)

高松藩主松平家墓所(法然寺)

寛文8年(1668年)に戦乱で荒廃した生福寺を再建し、法然寺と改名して高松松平藩の菩提寺としました。法然寺には初代松平頼重のほか、3~8代藩主などの墓が残されています。

香川県高松市の高松藩主松平家墓所(霊芝寺)

高松藩主松平家墓所(霊芝寺)

水戸徳川家から養子である2代松平頼常と9代松平賴恕の2人の藩主が埋葬されており、水戸徳川家の仕来りにならい封と呼ばれる儒教式の墓に埋葬されました。

香川県高松市の栗林公園飛来峰から偃月橋

飛来峰から偃月橋

高松松平藩・初代藩主松平頼重は栗林荘と呼ばれる下屋敷と築庭を進め、5代藩主松平頼恭が完成させました。

藩財政の衰退

6代藩主松平賴眞は、風水害や高松の大火などの災害に見舞われながらも困窮した領民からの租税を免除して救済に努め、民政の復興を行うことで藩財政は好転して安永8年(1779年)に藩校講道館を建設しました。7代藩主松平賴起は天明の大飢饉など度重なる大干ばつが起こりますが、領民に米を貸す慈善事業を行うほど藩財政は建て直されました。やがて嗜好に傾向して藩財政が傾いていくと、8代藩主松平賴儀は塩や砂糖の地場産業の振興を行うも藩札発行でインフレを招いて藩財政が破綻状態となりました。

藩財政の再建

9代藩主松平賴恕は文政9年(1826年)に久米通賢を登用し、坂出の浜辺に塩田の開墾を行いました。塩田の開墾は藩からの工費だけでは足りず、久米通賢は私財を投じて文政12年(1829年)に塩田開墾に成功しました。坂出塩田は日本最大級の塩田となり、藩財政の再建を果たしました。

朝敵として明治を迎える

10代藩主松平賴胤は、井伊直弼の娘弥千代を正室に迎えて攘夷防衛の要所警固や水戸藩政後見で江戸に詰めていましたが、安政7年(1860年)の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると家督を松平賴聰に譲り隠居しました。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府方となる松平賴聰は、新政府から朝敵と見做され、京都の興正寺の勧めもあり家老2名に切腹を命じて浄願寺に謹慎して恭順の姿勢を示しました。

香川県高松市の高松城跡桜御門

桜御門

明治2年(1869年)の版籍奉還で高松城は廃城となりました。披雲閣の正門に当たる桜御門は令和4年(2022年)に再建されました。

香川県高松市の披雲閣

披雲閣

大正6年(1917年)に12代松平頼寿の別邸として再建されましたが、昭和20年(1945年)の高松空襲で焼失して令和4年(2022年)に復元されました。