丸亀市

丸亀市は香川県の海岸線側ほぼ中央部に位置します。北は讃岐山脈が連なり、南は瀬戸内海と島々が点在しています。市域は讃岐平野の一部にあり、中央部に讃岐富士と呼ばれる飯野山が聳えます。讃岐うどんの本場のひとつであり、全国トップクラスを誇る丸亀うちわの産地として知られています。
概要
- 面積
- 111.79km2
- 人口
- 109,083人(2022年2月1日)
- 市の木
- ヤマモモ
- 市の花
- サツキ
- 地図
歴史
本島を拠点とした塩飽衆は瀬戸内海を席巻し、豊臣秀吉や徳川家康ら天下人の輸送を担いました。讃岐広島で採掘される青木石と呼ばれる花崗岩は、江戸時代の大阪城の石垣から明治時代の全国各地の近代建築に使われ、江戸時代までその輸送を塩飽衆が担いました。丸亀市域は丸亀城の城下町を前身とし、江戸時代後期に金毘羅参詣の起点として繁栄しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
飯野山西麓遺跡や三条黒島遺跡などで旧石器時代の遺物が見つかります。縄文時代は縄文海進により丸亀平野の大部分は海に没したため、海退後に形成した微高地や島に遺跡が残されています。平池西遺跡は縄文時代晩期から弥生時代の河道が検出し、下川津遺跡や中の池遺跡などで弥生時代の人の痕跡が見つかりました。弥生時代中期から古墳時代前期にかけて旧練兵場遺跡に大規模な集落を形成しました。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代前期に丸亀平野の東部および南部の丘陵上に快天山古墳や津田古墳群を始めとする前方後円墳が造営されました。古墳時代中期から後期にかけて羽床盆地縁辺部と岡田台地に古墳が形成し、後期後半から宇閇神社古墳などの横穴式石室墳が再び大高見峰北麓に築かれました。

快天山古墳
日本最古の石棺をもつ四国最大の前方後円墳で、瀬戸内海でも7番目の大きさを誇ります。4世紀中葉の築造と考えられ、中央にもつながる権力者が埋葬されていると考えられます。

陣の丸古墳
横山山塊の丘陵に築かれた前方後円墳2基と方墳1基が一直線上に築造された古墳群で、4世紀中期から後半に築造されたと考えられています。
奈良時代、平安時代
律令体制の成立により讃岐国にれ鵜足郡・那珂郡がおかれ、城山に古代山城が築かれて旧南海道が整備されました。大化元年(645年)には宝幢寺や歓喜寺が建立し、天平12年(740年)に行基が三谷寺を創建したと伝えられます。平安時代に弘法大師空海は心経山で修行をしたとされています。

青ノ山一号窯跡
6世紀後半から7世紀初めの全地下式穴窯の窯跡で、青ノ山7号墳の発掘調査で見つかりました。古墳と窯跡の出現は工人集団を率いた豪族が須恵器を生産したことを示唆します。
鎌倉時代、南北朝時代
大規模な土地開発が行われるようになり、郡家原遺跡、川西北・鍛冶屋遺跡などで集落を形成し、有力者たちの館跡とみられる遺構が飯山北土居遺跡で確認されています。田村城跡・中津城跡などの平地城館のほか、山間部では西長尾城跡、栗隈城跡などの城跡も築かれました。
室町時代、安土桃山時代
応仁元年(1467年)に細川頼之の家臣・奈良元安が聖通寺城の支城として丸亀に砦を築きました。長宗我部元親が讃岐国を攻めて支配しましたが、天正13年(1585年)に長宗我部氏は豊臣秀吉に降伏して讃岐国は仙石秀久に与えられました。天正15年(1587年)に仙石秀久は豊臣秀吉の命令を無視して戸次川の戦いで大敗したため、讃岐国は生駒正親に与えられました。生駒正親は高松城を築いて居城とし、高松城の支城として丸亀城を築城しました。
天下人の輸送を担う塩飽衆
本島を拠点とした塩飽衆は、瀬戸内海の輸送を担い勢力を築きました。戦国時代には笠島城を拠点として塩飽水軍を形成し、麓の笠島集落は防衛を意識して区割りされました。豊臣秀吉が天下統一を進めると、塩飽衆は人質を差し出して諸城を明け渡しています。天正18年(1590年)に塩飽衆は豊臣秀吉から朱印状を与えられて天下人の輸送を担うようになり、慶長5年(1600年)には徳川家康から1250石の領有が認められています。

笠島城跡
本島の東北端にある丘陵に築かれた城で、塩飽水軍が本拠地としていました。長宗我部氏が攻め落としましたが、四国平定を進める豊臣秀吉に城を明け渡しました。

笠島集落
本島の東側にある小さな港町で、かつて海運業で栄えた船方衆が集落を形成しました。現在は江戸時代から明治時代に粋を凝らして建てられた建物が数多く残ります。
江戸時代
元和元年(1615年)の一国一城令で丸亀城は廃城となりますが、寛永17年(1640年)に生駒氏がお家騒動で改易されたことで西讃岐に山崎家治が入封すると丸亀城が再建されました。万治元年(1658年)には京極高知が入封し、この頃に丸亀城とその城下町が完成しました。本島は塩飽衆の自治が認められていましたが、寛政元年(1789年)に惣兵衛・小右衛門の両名が代表し、島中の窮状と公役の軽減を幕府に直訴して島治の改革が実施されました。
丸亀藩の藩政
金毘羅参詣が全国的に広がると丸亀はその拠点となり、丸亀から金毘羅宮へと通じる丸亀街道は旅客が増えました。6代藩主・京極高朗は藩政改革の一つとして藩士たちに副業としてうちわ作りを推奨しました。うちわ作りは庶民にも広まり、金毘羅参詣客に好評を得たことで丸亀の名産品となりました。寛政6年(1794年)に創建した藩校正明館は、幕末に田岡凌雲や土肥大作など多くの尊王志士を輩出しました。寛政10年(1798年)には本島宮の浦に塩飽勤番所を設置しました。

丸亀城
慶長2年(1597年)に生駒親正と生駒一正が築城を始めて一国一城令で廃城となりますが、寛永20年(1643年)に再建されました。扇の傾斜と呼ばれる高石垣が有名です。

中津万象園
貞享5年(1688年)に2代藩主・京極高豊が中津別館として築庭しました。白砂青松の海浜に矮松を植え、庭の中心に京極家ゆかりの琵琶湖を形どる八景池が置かれています。

塩飽勤番所跡
塩飽領を統治する年寄が交代で政務を執る役所として建築された建物です。明治時代の廃藩置県で塩飽領は解体し、勤番所は本島村役場として使用されました。

尾上邸
江戸時代に廻船問屋として栄えた尾上家の邸宅跡です。海運の繁栄を示すように、讃岐広島で採掘される青木石と呼ばれる花崗岩の石垣を積み上げています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で丸亀藩は丸亀県を経て香川県となりました。城跡や武家屋敷跡に歩兵第12連隊が置かれて軍都として発展し、明治22年(1889年)に丸亀に開通した鉄道は、明治33年(1900年)には高松まで延長されました。明治32年(1899年)に丸亀市が誕生し、大正12年(1923年)に丸亀港が竣工しましたが、昭和63年(1988年)に瀬戸大橋の開通して物流の流れが変化していきました。
