河野氏の繁栄と衰退

伊予国の豪族である河野氏は、水軍を率いて治承寿永の乱で屋島や壇ノ浦の戦いで活躍し鎌倉幕府の御家人となり大きな勢力を得ました。伊予国守護を与えられることもありましたが、周囲の細川家や大内家の侵攻を受け、度重なる内紛で衰退していきました。
河野氏の誕生
大和王権の時代、物部氏の子孫である越智氏は伊予国北部の小市国の国造に任じられました。やがて国造制が廃止されて郡による地方統治が始まると越智玉興が郡司の長官となり、その弟である越智玉澄が伊予国風早郡河野郷に移り河野氏を名乗るようになりました。
源氏に従う河野氏
律令体制が衰退して瀬戸内海で藤原純友が反乱を起こすと、越智郡の押領使河野好方は船団を率いて戦いました。こうした縁もあり治承寿永の乱(源平合戦)では源頼朝に呼応して河野通清が高縄山城で挙兵し、その子河野通信が源義経に従い壇ノ浦の戦いに参戦するなど、河野家は源頼朝と結び勢力を伸ばしました。

恵良城跡
難波次郎長浦が築城して居城としていました。治承5年(1181年)に備後国の奴可入道西寂が侵攻してきたときに河野通清が守備に当たらせました。

山の神古戦場跡
河野家当主河野通清と奴可入道西寂の戦いとなりましたが、高縄山城は落城して河野通清は自刃しました。
河野氏の統治と争乱
源頼朝は鎌倉幕府を開いて源氏による武家政権が誕生しますが、わずか3代で源氏本家が消滅して弱体化しました。これを好機とみた後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)に倒幕のために挙兵して承久の乱を起こしました。河野道信と嫡男河野通政は上皇側につき、もう一人の嫡男河野通久は幕府側に分かれて争いました。これにより河野道信は奥州へ流罪となり所領の多くを失いました。
元寇での活躍と所領回復
弘安4年(1281年)に中国元が襲来した弘安の役では、河野通久の孫河野通有は水軍を率いて参戦しました。河野通有は元寇防塁の前に布陣して元軍を迎え撃つ活躍をし、その不退転の意気込みは河野の後築地と呼ばれました。河野通有はこの活躍により所領を回復し、河野氏の中興の祖と云われます。
中央政権に翻弄される河野氏
元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が討幕のため挙兵して元弘の乱が起こると、河野通有の跡を継いだ河野通盛は、河野家庶流の得能氏や土居氏らが上皇方として参戦するのに対して幕府に与して戦いました。鎌倉幕府が滅亡すると河野通盛は所領が没収され河野氏庶流の得能通綱が河野家の惣領となりました。河野通盛は所領回復を求めて足利尊氏に従い、建武3年(1336年)に足利尊氏が建武新政から離反して室町幕府を成立させると、河野通盛は対馬守及び伊予国守護に任じられました。
観応の擾乱
観応の擾乱で足利尊氏と足利義直兄弟が争うと、双方が味方に取り込むため河野通盛を伊予国守護と認めました。観応の擾乱が終結すると伊予国守護は細川頼之に渡されましたが、細川頼之の従兄弟細川清氏が南朝に寝返ると、再び河野通盛が伊予国守護に任ぜられて細川清氏征討を要請されました。
河野氏と細川氏の争い
細川清氏の征討に消極的な姿勢を示した河野通盛は、貞治3年(1364年)に細川頼之と合戦となり、河野通盛の子・河野通朝は城を攻められて自害しました。ほどなく河野通盛が病死したため、孫の河野道直は南朝を頼り九州に逃れています。河野道直は太宰府にいた征西将軍懐良親王の助力を得て伊予に戻り、天授5年(1379年)に細川頼之が失脚すると北朝から伊予国守護に任命されました。河野道直は細川頼之討伐を命じられますが、その戦いで戦死しました。

湯築城跡
伊予国守護となる河野通盛が築城して風早郡河野郷から移り、得能氏ら河野家庶流と争うよう拠点となりました。

横山城跡
建武年間に築城された城で湯築城を守るための支城のひとつと考えられています。
河野氏の滅亡
河野道直が戦死するとその子河野通義は細川頼之と和睦して、以降伊予国守護は河野家が世襲していきました。河野通義が没すると、嫡男河野通久が元服するまで弟の河野道之に家督を譲りましたが、これが元で惣領家と予州家の争いに発展します。応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、その影響で守護職を惣領家と予州家で交互に繰り返されることになり、のちに惣領家の河野教通が主導権を掌握する形で収まりました。
独自の動きを見せる河野氏
伊予守護職は細川政元に与えられましたが、中央政権が権威は失墜して各領主は独自の動きを見せるようになり、予州家の河野通篤は独自に寺領安堵や所領給付を行い、大永3年(1523年)には鷹取山城の正岡紀伊守、享禄3年(1530年)には石井山城の重見通種が反乱を起こしています。
毛利氏の影響下
河野教通が東軍に転じてから大内氏との関係が悪くなると、跡を継いだ河野通直は天文4年(1535年)に湯築城を改修して敵対路線を続けますが、和睦を求める派が嫡男河野晴通を推して家中で争うようになりました。一反内乱は終息しますが、天文22年(1553年)に河野通直と河野晴通の弟河野通宣が対立して内紛が起きました。家督を継いだ河野通宣は、大内氏が滅亡すると毛利氏との関係を重視しました。厳島の戦いに村上通康を派遣し、土佐一条氏が伊予国鳥坂城を攻撃した際には毛利氏の乃美宗勝が援軍として鳥坂城を救援しました。この争いで河野通宣は来島通康と小早川隆景の養女の間に生まれた子を養子として迎え入れて家督を譲り、河野通直が当主となりました。
河野氏の滅亡
長宗我部元親は四国統一のため織田信長と同盟を結び、天正5年(1577年)に長宗我部元親の重臣久武親信が伊予国への侵攻を開始しました。大森城の土居清良が久武親信を討ち取る活躍で撃退に成功すると、長宗我部氏が織田氏との同盟関係が破綻したことを受けて毛利氏との関係修復を模索するようになりました。織田氏は毛利氏討伐を進め、天正10年(1582年)には来島通総が羽柴秀吉に内通すると、河野氏は毛利氏や能島村上氏とともに来島通総を攻めるなど情勢は目まぐるしく変化しました。本能寺の変で織田信長が討たれて豊臣秀吉が台頭すると、毛利氏は豊臣政権と関係を強めました。毛利氏と長宗我部氏の関係は破綻して豊臣秀吉による四国征伐を招きました。

湯築城跡
天正13年(1585年)に小早川隆景が伊予国に侵攻し、河野通直は戦うことなく開城して河野氏の統治は終わりを迎えました。

荏原城跡
慶長5年(1600年)に平岡善兵衛が河野氏再興を図り挙兵して失敗しました。