松山市
松山市は愛媛県のほぼ中央部にあり、重信川と石手川により形成された松山平野に位置する四国最大級の都市です。西は瀬戸内海に面し、東は高繩半島の丘陵が広がります。正岡子規をはじめ多くの文人や俳人を輩出し、夏目漱石の坊ちゃんや司馬遼太郎の坂の上の雲の舞台となりました。
概要
- 面積
- 429.40km2
- 人口
- 509,345人(2021年11月1日)
- 市の花
- ヤブツバキ
- 市の歌
- 松山市の歌
- 地図
特集
歴史
古墳時代末期に小市国国造の越智氏の一族は、風早郡河野郷に移り河野氏を名乗るようになりました。河野氏は源氏に与したことで御家人となり、湯築城を築城して居城としました。河野氏は伊予国守護にもなりましたが、豊臣秀吉の四国討伐で軍門に降りました。江戸時代には加藤嘉明が松山城を築城しましたが、転封となり蒲生家を経て久松松平家が藩主として明治時代に至るまで統治しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
松山市域は河川流域を中心に旧石器時代から人の営みがありました。永谷川とその支流である丸山川の流域には旧石器時代の祝谷丸山遺跡、弥生時代の祝谷六丁場遺跡や文京遺跡などが造営されています。石手川流域には縄文時代の上野遺跡や弥生時代の若草町遺跡、小野川と内川に挟まれた沖積低地には弥生時代の西石井遺跡が造営されています。松山平野北部には縄文時代の大渕遺跡、船ヶ谷遺跡が発見されています。
古墳時代、飛鳥時代
道後平野の丘陵部には集落の首長たちが古照遺跡、宮前川遺跡、朝日谷2号墳、樽味四反地遺跡、波賀部神社古墳などの前方後円墳が造営されました。やがて大和王権の影響を受けると、伊予国北部の小市国の国造に越智氏が任じられて勢力を伸ばすことになります。
経石山古墳
東野台地の平坦なところに築かれた5世紀後半の前方後円墳で、平面柄鏡式とも言われる様式をしています。
葉佐池古墳
古代の葬送儀礼モガリが復元されます。6世紀中頃に造営されて7世紀初頭まで追葬が行われました。
難波奥谷古墳
古墳時代後期の6~7世紀の比較的遅くに造営された円墳で、丘陵の斜面を利用しています。
奈良時代、平安時代
越智玉興の弟である越智玉澄が伊予国風早郡河野郷に移り河野氏を名乗るようになりました。越智郡の押領使河野好方は承平・天慶の乱で船団を率いています。源平合戦では源頼朝に呼応して河野通清が高縄山城で挙兵し、その子河野通信が源義経に従い壇ノ浦の戦いに参戦しています。
久米官衙遺跡
来住台地と呼ばれる河岸段丘上に造営された古代役所で、7世紀前半から中期までの政庁や7世紀中期から8世紀後期まで正倉院などがありました。
来住廃寺跡
大化2年(646年)の薄葬令で古墳造営が禁止され7世紀後半に来住廃寺跡が創建しました。来住廃寺跡は久米氏の氏寺といわれています。
伊予遍路道(浄瑠璃寺境内)
和銅元年(708年)に布教のため訪れた行基が伽藍を建立し、中国唐で修行した空海が訪れて荒廃した伽藍を修復したとされています。
伊予遍路道(浄土寺境内)
空也ゆかりの寺院で、天徳元年(957年)から3年間滞在した空也上人が布教を行い、道路や橋などの建設しました。
鎌倉時代、南北朝時代
後鳥羽上皇と鎌倉幕府の執権北条義時が争う承久の乱が起こると、河野道信と嫡男河野通政は上皇側につき、別の嫡男河野通久は幕府側に分かれて戦いました。これにより河野道信は奥州へ流罪となり、河野通久が家督を継ぎますが所領の多くを失いました。河野通有は元寇で水軍を率いて活躍して所領を回復し、河野氏の名声を高めたため河野氏の中興の祖と云われます。後醍醐天皇が元弘の乱で鎌倉幕府を倒した際、河野通有の跡を継いだ河野通盛は幕府に与したため所領が没収され、河野氏庶流の得能通綱が河野家の惣領となりました。のちに足利尊氏が建武新政から離反すると河野通盛は得能氏ら河野家庶流と争うようになりました。
湯築城跡
伊予の豪族河野氏が風早郡河野郷から拠点を移すため築城した城で、豊臣秀吉の四国討伐で河野氏が滅亡するまで居城としていました。
一遍上人の誕生地
河野道信の子河野道弘の次男は一遍上人となり、浄土教の一派である時宗の宗祖となりました。
室町時代、安土桃山時代
河野家は中央の権力争いの影響を受けながら伊予国守護として存続し、阿波国や讃岐国を基盤とする細川家と対立していきます。また家中では惣領家と予州家の対立が続き、伊予国の国人衆は独自の動きを見せるようになりました。河野家は大内氏を滅ぼして中国地方をほぼ手中に収めた毛利氏と関係を構築して存続を図りました。
河野氏の滅亡
天正5年(1577年)に土佐国長宗我部元親が侵攻を開始すると、毛利氏から援軍を得て大森城の土居清良が久武親信を討ち取るなどの活躍で長宗我部氏を撃退しましたが、本能寺の変で豊臣秀吉が台頭すると毛利氏が豊臣政権と親密になり、天正13年(1585年)に豊臣秀吉の四国征伐で侵攻してきた毛利家の小早川隆景に城を明け渡し、河野家の伊予国統治は終わりを迎えました。
江戸時代
加藤嘉明は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの功績により伊予20万石を与えられ、松山城を築城して城下町を整備しました。寛永4年(1627年)に会津若松城に移封となり蒲生忠知が入封しますが、寛永12年(1635年)に改易されると、伊勢桑名より松平定行が転封しました。
戊辰戦争
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで松平定昭は梅田方面の警備に当たりましたが、これまでの佐幕派としての行動により松平定昭は朝敵として追討され、土佐藩が迫るなか城内では先代藩主松平勝成の恭順論と松平定昭の抗戦論が対立することになりました。正岡子規の祖父大原大観らの藩士は藩主松平定昭を説得し、松山藩は戦わずに城を明け渡して土佐藩の占領下に置かれました。
松山城跡
慶長7年(1602年)に加藤嘉明が足立重信を普請奉行に命じて築城を始めました。松山城は日本に12しかない天守が残されています。
青地林宗の墓
安永4年(1775年)に松山藩医の子として生まれた青地林宗は、西洋医学を通して自然科学に強い関心をもち日本で最初の物理学書を著して分子論や引力、気象現象などを紹介しました。
庚申庵
寛政12年(1800年)に伊予俳壇の中心的存在である栗田樗堂が結んだ草庵で、俳句大国の松山の文化を育みました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で松山県となり、翌年に石鉄県を経て明治6年(1873年)に愛媛県に編入されました。太平洋戦争が勃発して戦況が悪化すると、昭和20年(1945年)に松山市は空襲で市街地の大部分を焼失しました。
道後温泉
兵庫県の有馬温泉、和歌山県の白浜温泉とともに日本三古湯に数えられる日本最古の温泉と言われます。明治27年(1894年)に神の湯本館が改築されています。
子規堂
正岡子規が幼少を過ごした建物は、昭和10年(1935年)に再建されましたが、太平洋戦争の空襲で焼失したため、昭和21年(1946年)に再建されました。