伊予松山藩の文化
伊予松山城は江戸時代に築城の名手加藤嘉明が築城した四国最大の城郭で、日本で12カ所だけ残る現存天守の一つです。のちに久松松平家が藩主を務め明治時代まで統治しました。久松松平家のもとで俳句文化や伊予絣などの特産品が生まれました。
加藤嘉明の松山城築城
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの功績により伊予20万石を与えられた加藤嘉明は、慶長7年(1602年)に松山城の築城を始めて、翌年に正木から移り城下を松山と命名しました。松山城を築城していた際に石手川(湯山川)が洪水を引き起こすため、足立重信は石手川から伊予川(重信川)まで水路を引く治水工事を行いました。
加藤嘉明の転封
加藤嘉明は25年の歳月をかけて松山城の天守や城が姿を現した頃、寛永4年(1627年)に突然幕府から転封を言い渡されました。この裁定は松山城の見事さが幕府の疑念を招いたとも言われます。加藤嘉明は所領の倍増と引き換えに松山城を明け渡し、会津若松城へと去りました。
伊予松山城
道後平野の中枢部にある標高132メートルの勝山に城郭を築くため、足立重信を普請奉行に命じて築城を開始しました。
岩堰
石手川(湯山川)が洪水を引き起こすため、足立重信が伊予川まで岩を削り水路を築きました。伊予川はのちに重信川と呼ばれるようになりました。
足立重信の墓
松山城築城と治水工事を担当しました。墓所は足立重信の遺言に従い松山城が眺められる松山城北方の來迎寺に置かれました。
蒲生家の短い統治
寛永4年(1627年)に蒲生忠知が出羽上山より移封されました。蒲生忠知は松山城の造営を引継ぎ、二ノ丸を完成させ、兄の供養のために寛永4年(1627年)に禅宗見樹院を創建しました。蒲生忠知は寛永11年(1634年)に若くして嫡男がいないまま病死して改易されたため、見樹院はのちの松平定行が転封してから松平家の菩提寺として大林寺と改名しています。
久松松平家の統治
寛永12年(1635年)に伊勢桑名より松平定行が転封してきました。3代将軍徳川家光まで行われていた武断政治は、大名の取り潰しで浪人が増加する社会問題が起きていました。徳川家光が亡くなると刈谷藩主松平定政は無届で出家し、領地を返納して旗本救済を願う諷誡書を提出しました。この事件を重く見た幕府は松平定政を松平定行に預けましたが、この事件からすぐに由井正雪の乱が起こり、幕府は武断政治から文治政治へと舵を切ることになりました。
藩財政の悪化
4代藩主松平定直は高内又七に命じ、藩内の良田と下田を平等に配分する土地割換制度を行い不平等を排除したほか、溜池の新設して干ばつに備え、荒廃した耕地の再開発などを行いました。元禄15年(1703年)に大石良雄ら赤穂浪士が吉良義央を襲撃した事件では、大石良雄ら10名を藩邸で預かりました。5代藩主松平定英は大川文蔵を抜擢して氾濫を繰り返す石手川の治水工事を行いますが、享保17年(1732年)の享保の大飢饉が起こり藩の財政が圧迫すると、寛保元年(1741年)には久万山農民騒動が起こるなど藩政は不安定となりました。
東野お茶屋跡
万治元年(1658年)に家督を松平定頼に譲ると、寛文元年(1661年)に東野お茶屋跡を完成させて隠居地としました。
松平定行の霊廟
松平定行は蒲生家の改易に伴い松山藩主となりました。松平定行は幕府に配慮して寛永16年(1639年)に天守を5重から3重連立式天守に改築しています。
松平定政の霊廟
旗本救済を願う諷誡書を提出しますが、狂気の沙汰として永蟄居に処されて松平定行に預けられました。
松平定通の藩政改革
11代藩主松平定通が幼くして藩主となると、干ばつや大雨で凶作が続きました。藩は財政難に陥り極端な倹約が厳行され、藩主松平定通も模範を示すため木綿の単衣を用いて食膳は一汁一菜としました。松平定通は国産奨励を推進するため、菊屋新助を支援して伊予結城(伊予縞)の販路拡大に努めました。
庚申庵
寛政12年(1800年)に伊予俳壇の中心的存在である栗田樗堂が結んだ草庵で、俳句大国の松山の文化を育みました。
明教館
松平定通は風紀粛清を厳行するため、文政11年(1828年)に明教館を設立しました。明教館では朱子学を中心に講義が行なわれました。
鍵谷カナの墓
鍵谷カナは藍染を採用して高機で絣を織り出すことに成功しました。絣は伊予絣として全国に知られるようになりました。
菊屋新助の墓
京都西陣から絹織に用いられている花機を取り寄せて木綿織用に改造して高機を製造し、伊予結城(伊予縞)は良質なものとなりました。
幕末以降の松山藩
松平勝成は幕府の命を受けて、元治元年(1864年)の第一次長州征伐や慶長2年(1866年)の第二次長州征伐に兵を派遣しました。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで松平定昭は梅田方面の警備に当たりましたが、これまでの行動から松平定昭は朝敵として追討され、土佐藩が迫るなか城内では先代藩主松平勝成の恭順論と松平定昭の抗戦論が対立することになりました。正岡子規の祖父大原大観らの藩士は藩主松平定昭を説得し、松山藩は戦わずに城を明け渡して土佐藩の占領下に置かれました。
松山藩と松山城の廃止
松山藩は新政府から軍備15万両の上納を命じられ、これを支払い藩は存続しました。明治2年(1869年)の版籍奉還では松平勝成が松山藩知事となり三之丸を藩庁とし、翌年に三ノ丸藩庁が焼失したため二ノ丸に藩庁を置きました。明治6年(1873年)の廃城令で松山城は廃城となりました。
伊予松山城
大正9年(1920年)に櫓門などが取り除かれ、その他の建物も火災や戦禍で焼失しましたが、残された21棟は昭和25年(1950年)に国の重要文化財に指定されました。