西国の伊達・南海の伊達

伊達政宗の庶長子・伊達秀宗は、仙台藩の支藩ではなく独立した宇和島藩を立藩しました。伊達政宗から派遣された家臣と自ら召し抱えた家臣で対立するなど、内紛や伊予吉田藩の分立などの困難を乗り越えて10万石の維持に努めました。幕末には西洋式の軍事訓練や蘭学の導入を積極的に行い、西国の伊達・南海の伊達として近代技術の拠点の一つとなりました。
相次ぐ領主交代
宇和郡は戦国時代に藤原北家閑院流の公家である西園寺氏が治めていました。伊予西園寺氏は黒瀬城を本拠として、河野氏や毛利氏と関係を持ち土佐一条氏の侵攻を食い止めましたが、長宗我部氏が勢力を拡大すると西園寺氏は屈服しました。豊臣秀吉の四国征伐により小早川隆景に伊予国が与えられますが、天正15年(1587年)に小早川隆景の移封により戸田勝隆が大洲領主となり、文禄4年(1595年)に戸田氏の無嗣断絶により藤堂高虎が入りました。慶長13年(1608年)に藤堂高虎は伊勢国津の富田信高と領地替えとなり、一時的に幕府直轄領となりました。

卯之町伝統的建築群
黒瀬城の対岸山麓に営まれた松葉町は、南予全域を支配した西園寺氏の城下町を起源としています。街道の宿場町として栄え、のちに名を変え卯之町と呼ばれるようになりました。

宇和島城
慶長6年(1601年)に築城の名手と名高い藤堂高虎が標高80メートルの丘陵に築きました。寛文6年(1666年)頃に2代藩主伊達宗利が建替えた天守が残ります。
伊達秀宗の確執
伊達秀宗は、伊達政宗とその側室・新造の方との間に生まれました。当時、伊達政宗とその正室・田村御前との間に子は無く、伊達秀宗は伊達氏の後継者と位置付けられ、文禄4年(1594年)に豊臣秀吉の人質として差し出され、文禄6年(1597年)には豊臣秀吉から秀の偏諱を賜りました。関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、伊達秀宗は徳川家康の人質として江戸で暮らしました。慶長4年(1600年)に伊達政宗と田村御前の間に伊達忠宗が生まれると、伊達家の後継者は忠宗と目されるようになりました。

伊達秀宗の墓
宇和島藩初代藩主の伊達秀宗は、伊達政宗の長男として生まれました。大坂冬の陣の戦功で宇和郡を与えられ、仙台藩の支藩ではなく新たに宇和島藩を立藩しました。

南予護国神社
初代藩主・伊達秀宗を主祭神とする神社で、大正2年(1913年)に創建しました。戦没英霊7000余柱を合祀し、昭和30年(1955年)に南予護国神社と改称しました。
宇和島藩の立藩
慶長19年(1614年)の大阪冬の陣の戦功で伊達家に宇和郡10万石が加増されると、伊達政宗は豊臣秀吉に近い伊達秀宗を宇和郡に分与し、徳川秀忠から偏諱を賜る伊達忠宗を後継者としました。伊達政宗は伊達秀宗に五十七騎と六万両を与え、補佐役として山家清兵衛に宇和島藩の総奉行を任せました。伊達秀宗は坂嶋丸串城に入り、宇和島藩が立藩しました。
和霊騒動
山家清兵衛は度重なる領主の交代や干ばつなどで疲弊していた領内で、産業を興すなどして領民から慕われていました。山家清兵衛は伊達政宗から与えられていた六万両を返済するため、藩の経費節減と藩士の減俸を主張して桜田玄蕃らと対立しました。宇和島藩が幕府から大阪城石垣工事を命じられると、桜田玄蕃らは山家清兵衛が資金を着服していると藩主伊達秀宗に讒言し、元和6年(1620年)に山家清兵衛が暗殺される事件が起きました。伊達政宗は激怒して親子の関係が悪化し、幕府に宇和島藩没収が献言される事態となりました。

西江寺庭園
正平20年/貞治4年(1365年)に創建した西江寺は宇和島市最古の寺院で、寛永9年(1632年)に伊達秀宗の城下町整備で移転し、重森三玲により枯山水庭園が作庭されました。

和霊神社
桜田玄蕃が不慮の事故で死去する事故など反山家清兵衛派に不幸が続き、人びとは清兵衛の祟りと恐れました。承応2年(1653年)に伊達秀宗は清兵衛を祀る和霊神社を創建しました。
逼迫する藩財政
伊達秀宗は伊達宗利を2代藩主として隠居しましたが、弟の伊達正純に3万石の文知状を出していたことで騒動となり、最終的に井伊直孝の仲裁により伊達正純が伊予吉田藩を成立させました。宇和島藩は10万石から7万石となりましたが、新田開発などで10万石の家格を維持しました。3代藩主・伊達宗贇が仙台伊達家から養子として入り、延宝4年(1676年)に藩主の居館として浜屋敷を造営しました。享保13年(1728年)から水害や虫害が相次ぎ、4代藩主・伊達村年は幕府から借金しつつ藩政改革を指示しますが、参勤交代の途中に志半ばで死去しています。

八幡浜街道(笠置峠越)
古くから西予市宇和町北東部から八幡浜市南部を結ぶ街道として使われていました。元禄14年(1701年)の3代藩主伊達宗贇を始め歴代藩主が参勤交代で使用しました。

遊子水荷浦の段畑
急な山の斜面に石垣を積み上げて造られた階段状の畑地です。3代藩主伊達宗贇の頃に鰯網漁が開発され、移住した漁民が耕して天に至ると形容される段々畑を造営しました。
宇和島藩の藩政改革
中興の英主と称えられる5代藩主・伊達村候は、享保21年(1736年)から段階的に高持制への移行を強行して農村復興に着手し、倹約令とともに殖産興業を奨励しました。城下の商人に櫨実晒蝋座を許して木蝋を宇和島藩の重要な特産品とし、製糸業や泉貨祇と呼ばれる和紙の生産を推奨しました。寛延元年(1748年)には士民教学の内徳館を創設し、藤好本蔵(南阜)らを教授に招いて学問の普及に努めました。
頻発する一揆や騒動
伊達村候の藩政改革は成功しましたが、天明の大飢饉で農村部が再び荒廃して、天明8年(1788年)の富野川騒動や寛政5年(1793年)の武左衛門一揆などが起きました。寛政6年(1794年)に伊達村候が死去して伊達村寿が6代藩主となり藩政改革を継続しますが、文化9年(1812年)の萩森騒動で財政は逼迫して伊能忠敬らの測量への支援も苦しむ状況となりました。
幕末の動乱
文政6年(1824年)に7代藩主となる伊達宗紀は、徹底した倹約と殖産振興、債務整理を断行して六万両の蓄財に成功しました。嘉永6年(1853年)の黒船来航では、欧米諸国の軍備が優れていることから攘夷の無謀を説き、富国強兵を幕府に献言しました。
幕末の四賢候
8代藩主・伊達宗城は徳川斉昭の国防思想に影響を受け、宇和島藩の軍事近代化を推し進めました。幕府お尋ね者の脱獄逃亡犯の高野長英を密かに宇和島に招き、長州の無名医である村田亮庵(大村益次郎)を召し抱えたほか、西洋式蒸気船の自力建造を思い立ち嘉蔵(前原巧山)を登用して純国産第一号の蒸気船を完成させました。シーボルトの娘・楠本イネを伊達家の医師に迎え入れて城下に医院を開業させました。伊達宗城は幕末の四賢候と称され、宇和島を訪れた英国書記官アーネスト・サトウは伊達宗城を大名の中でも一番の知恵者と称しています。

天赦園
2代藩主・伊達宗利が宇和島湾の一部を埋め立てて浜御殿を造営したのが始まりで、7代藩主・伊達宗紀が隠居の場所として池泉廻遊式庭園を築庭しました。

伊達宗城及び夫人の墓
宇和島藩8代藩主・伊達宗城は藩政の重点を富国強兵・殖産興業策とし、蝋の専売制、藩兵の洋式訓練等を実施して藩権力の強化に成功し、幕末四賢侯の一人と称せられました。

高野長英の隠れ家
宇和島藩8代藩主・伊達宗城は、幕府お尋ね者の脱獄逃亡犯の高野長英を密かに宇和島に招き、兵学書の翻訳や藩士への蘭学教授、砲台の設計、軍艦建造の研究にあたらせました。

大村益次郎住居跡
伊達宗城は長州の無名医である村田亮庵(大村益次郎)を召し抱え、軍艦ひな形の建造、砲台築造、軍制改革、蘭学教授にあたらせました。

二宮敬作住居跡
二宮敬作はドイツ人医師シーボルトの弟子で、シーボルト事件に連座して長崎から追放されました。二宮敬作は卯之町で病院を開業し、シーボルトの妻と娘イネの扶養に努めました。
