歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

宇和島市

愛媛県宇和島市の宇和島市街

宇和島市は四国西南部に位置し、西は宇和海に面して入江と半島が複雑に交錯した典型的なリアス式海岸を形成しています。年間を通じて温暖な気候で、市域の7割を森林が占めています。自然を活かした水産業や農業が盛んで、真珠や真鯛の養殖、柑橘の生産量が日本一です。

概要

面積
468.19km2
人口
69,777人(2022年2月1日)
市の木
マツ
市の花
みかん
地図

特集

愛媛県宇和島市の宇和島城

西国の伊達・南海の伊達

伊達政宗の庶長子・伊達秀宗が立藩した宇和島藩は、幕末に西洋式の軍事訓練や蘭学の導入を積極的に行い、西国の伊達・南海の伊達として近代技術の拠点の一つとなりました。

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歴史

慶長20年(1615年)に伊達政宗の庶長子である伊達秀宗が宇和郡10万石を与えられ、宇和島城を居城として宇和島藩が立藩しました。宇和島藩は独自の藩財政を確立し、仙台の文化を取り入れながら八つ鹿踊りや闘牛など独特な城下町文化を育みました。幕末には日本の近代技術の拠点の一つとなり、8代藩主伊達宗城は幕末の四賢侯の一人に数えられています。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

宇和島市域には旧石器時代から人が住みはじめたと考えられています。宇和海沿岸部には無月遺跡などに集落が形成し、縄文時代早期の犬除遺跡から西南四国地域で最大規模で土器や遺構が見つかりました。弥生時代も狩猟採集は続けられ、拝鷹山には拝鷹山貝塚が造営されています。

古墳時代、飛鳥時代

全国的に王や貴族が大きな墓を造るようになりましたが、三間や吉田で土器が採集されているに過ぎず、市域では古墳が発見されていません。

奈良時代、平安時代

律令制により伊予国が置かれ、南予地方は宇和郡に属しました。天慶4年(941年)頃に警固使の橘遠保が砦を建設しました。承平6年(936年)に藤原純友が日振島を拠点として反乱を起こし、藤原純友の乱を討伐した橘氏が土着の豪族として鎌倉時代前期まで支配を続けました。

愛媛県宇和島市の伊予遍路道(稲荷神社境内及び龍光寺境内)

伊予遍路道(稲荷神社境内及び龍光寺境内)

大同2年(807年)に弘法大師空海は稲を背負う老人に出会いました。空海は老人を五穀大明神の化身と感得し、刻んだ稲荷大明神を本尊とする龍光寺を創建しました。

愛媛県宇和島市の伊予遍路道(仏木寺道)

伊予遍路道(仏木寺道)

龍光寺から仏木寺までの約4キロの遍路道で、道沿いには江戸時代後期の遍路墓が残されています。仏木寺には四国霊場で唯一の茅葺屋根の鐘楼堂が残されています。

鎌倉時代、南北朝時代

鎌倉時代中期に宇和郡は橘氏に代わり西園寺氏の荘園となりました。鎌倉時代末期から西園寺氏の一族が住居して来村西園寺氏が成立しましたが、この頃から室町時代にかけて多くの在地領主が成立しました。

室町時代、安土桃山時代

天正3年(1575年)に西園寺氏は板島丸串城に居城を移しました。天正12年(1584年)に西園寺公広は長宗我部氏の軍門に下り、大森城主の土居清良も城を離れました。翌年には豊臣秀吉の四国平定により伊予国が小早川隆景の所領となり、戸田勝隆が喜多郡と宇和郡を所領としました。文禄4年(1595年)に宇和郡は藤堂高虎に与えられ、慶長5年(1600年)に伊予半国を与えられたことを受けて坂嶋丸串城を本城と定めて築城を始めました。

江戸時代

慶長13年(1608年)に富田信高が宇和郡に封じられますが、慶長18年(1613年)に富田信高が改易となり一時的に幕府の直轄領となりました。慶長20年(1615年)に大阪冬の陣の戦功により、伊達政宗の庶長子・伊達秀宗が宇和郡を与えられて宇和島城に入りました。伊達政宗が派遣した家臣と伊達秀宗が召し抱えた家臣が対立し、山家清兵衛が殺害される和霊騒動が起こりました。宇和島藩は木蝋や泉貨紙の専売で財政を支えましたが、一揆や騒動が頻発しました。幕末には西洋の軍事技術や蘭学を積極的に取り入れ、伊達宗城は幕末の四賢侯に数えられています。

愛媛県宇和島市の宇和島城

宇和島城

慶長6年(1601年)に築城の名手と名高い藤堂高虎が標高80メートルの丘陵に築きました。寛文6年(1666年)頃に2代藩主伊達宗利が建替えた天守が残ります。

愛媛県宇和島市の伊達秀宗の墓

伊達秀宗の墓

宇和島藩初代藩主の伊達秀宗は、伊達政宗の長男として生まれました。大坂冬の陣の戦功で宇和郡を与えられ、仙台藩の支藩ではなく新たに宇和島藩を立藩しました。

愛媛県宇和島市の西江寺庭園

西江寺庭園

正平20年/貞治4年(1365年)に創建した西江寺は宇和島市最古の寺院で、寛永9年(1632年)に伊達秀宗の城下町整備で移転し、重森三玲により枯山水庭園が作庭されました。

愛媛県宇和島市の遊子水荷浦の段畑

遊子水荷浦の段畑

急な山の斜面に石垣を積み上げて造られた階段状の畑地です。耕して天に至ると形容される段々畑は、国の重要文化的景観や美しい日本のむら景観百選に選定されています。

愛媛県宇和島市の天赦園

天赦園

2代藩主・伊達宗利が宇和島湾の一部を埋め立てて浜御殿を造営したのが始まりで、7代藩主・伊達宗紀が隠居の場所として池泉廻遊式庭園を築庭しました。

愛媛県宇和島市の伊達宗城及び夫人の墓

伊達宗城及び夫人の墓

宇和島藩8代藩主・伊達宗城は藩政の重点を富国強兵・殖産興業策とし、蝋の専売制、藩兵の洋式訓練等を実施して藩権力の強化に成功し、幕末四賢侯の一人と称せられました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で宇和島県が誕生し、神山県を経て愛媛県に編入されました。大正2年(1913年)に小西左金吾が宇和海で天然真珠の養殖を始め、戦争などの困難を経て有数の生産地となりました。大正3年(1914年)に宇和島鉄道が開通して、大正10年(1921年)に宇和島市が誕生しました。昭和20年(1945年)に12回にわたる宇和島空襲により市街の大半を焼失しましたが、やがて真鯛やはまちの養殖が始められて日本一の生産量を誇るようになりました。

愛媛県宇和島市の南楽園

南楽園

昭和60年(1985年)に南予レクリエーション都市事業の一環として開園しました。名古屋の徳川園や広島の三景園を手掛けた伊藤邦衛が作庭した庭園があります。