土佐山内藩の藩政

関ヶ原の戦いの戦功により、山内一豊は長宗我部氏の遺領である土佐国を与えられました。山内一豊は高知城を築城して支配を強化しますが、長宗我部氏の遺臣は山内家に反抗しました。藩政改革を任された野仲兼山は長宗我部遺臣を懐柔して新田開発や漁港整備などを行い、雄藩の一つとなる基盤を整えました。
土佐藩立藩と高知城
江戸時代以前の土佐国は四国統一を成し遂げた長宗我部氏が領主でした。長宗我部氏は一領具足と呼ばれる半農半士の制度により、領民は普段は田畑を耕して有事に武士として戦い領地を守りました。土佐の領民は国を守る意識が強く、新たな領主となる山内家に対して抵抗しました。
土佐藩士の差別化制度
山内一豊は山内家に仕える武士を上士、土佐にいた武士を下士として差別化し、反抗する長宗我部遺臣を殺害しました。上士が藩の重要なポストを独占して下士は虐げられていたため、下士の積年の恨みは幕末の土佐勤王党の設立などに大きく影響していきました。

山内一豊
長宗我部氏が関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易となり、山内一豊に土佐国が与えられて土佐藩を立藩して初代藩主となりました。

浦戸城
国を守るプライドが強い長宗我部の遺臣たちは、新たな領主山内一豊に対して長宗我部氏の居城・浦戸城の明け渡しを拒否して各地で反乱を起こしました。

高知城天守
山内一豊は従わない領民に威厳を示すため、築城名人百々綱家を迎えて慶長6年(1601年)に高知城の築城を始めました。

土佐藩主山内家墓所
土佐藩山内家の墓所です。初代山内一豊と二代山内忠義の墓は、古代中国を起源とした卵塔型をしています。
野中兼山の藩政改革
2代藩主山内忠義は、寛永8年(1631年)から野中兼山を登用して藩政改革を進めました。野中兼山は長宗我部遺臣を郷士として分離し、郷士の協力を得て新田開発や港湾整備を行い郷士の生活安定を図りました。灌漑事業は広大な穀倉地帯のほか、綿・煙草・菜種などの特用農作物の栽培、養蜂、薬草の栽培を生み、安全な漁港の整備によりカツオの一本釣りやクジラ漁を盛んにしました。
野中兼山の失脚
3代藩主山内忠豊の代には宇和島藩との国境問題を解決して藩政の基礎を固めましたが、過酷な年貢の取り立てや華美贅沢の禁止などで領民に不満が溜り、郷士の役職への取り立てなどが上士の反発を買いました。孕石元政、生駒木工などが家老深尾出羽を通じて藩主の山内忠豊に弾劾状を提出し、寛文3年(1663年)に野中兼山は幽閉されました。
野中兼山
藩政改革を行い土佐藩の基盤を築きましたが、上士や領民の不満により失脚しました。家族は男系が絶えるまで40年も幽閉され、娘の婉子は結婚を許されませんでした。

山田堰
野中兼山が築造した長さ327メートルの堰で、寛永16年(1639年)から26年かけて完成させました。下流の平野を潤して舟運の利用で土佐藩の経済に大きく貢献しました。

野中神社(お婉堂)
宝永5年(1708年)に野中兼山をはじめとする血縁者を祀るため、野中兼山の娘・お椀が旧臣古槙氏の協力を得て建立した神社です。

はりまや橋
寛文11年(1671年)に豪商播磨屋や櫃屋は土佐藩から大年寄役に任命されて関係が強化されました。播磨屋と櫃屋を人が往来するためにはりまや橋が設置されました。
安定した藩政
5代藩主山内豊房の代には、風水害や城下の火災などで被害を受けましたが、基盤ができている土佐藩は領民に対して救済措置を施しました。元禄16年(1703年)には藩財政再建のため藩札を発行し、山内規重を奉行として緊縮財政政策を採用したほか谷秦山を招いて学問を奨励しましたが、6代藩主山内豊隆は兄の政策を一新して山内規重や谷秦山などを処断しました。
藩財政の後退
宝永4年(1707年)の宝永地震で多くの犠牲が出て、享保17年(1732年)の享保の大飢饉が起こりました。8代藩主山内豊敷は行政整理や製鉄業を奨励したほか、宝暦9年(1759年)に藩校・教授館を設立しましたが、9代山内豊雍のときの天明の大飢饉で藩財政は困窮しました。

懐徳館(本丸御殿)
国内で唯一、本丸御殿が残ります。

追手門
享保12年(1727年)に高知城が焼失しましたが、追手門だけは焼けることはありませんでした。
下士を登用した藩政改革
天保4年(1833年)に始まる天保の大飢饉で大打撃を受けると、土佐藩は倹約令を出して専売制の強化し、新田開発や銅山開発などを行いました。13代藩主山内豊熈は、天保14年(1843年)に下士の馬渕嘉平を抜擢して藩政改革を行いました。下士たちが主導して藩財政の収支の見直し専売制の強化を行いますが、馬渕嘉平はおこぜ組と呼ばれて門閥派から異端視されました。馬渕嘉平は投獄され、嘉永4年(1851年)に獄中で死去しました。
新おこぜ組の藩政改革
15代藩主山内容堂は、嘉永6年(1853年)に吉田東洋を起用して藩政改革を行いました。紙や椎茸、樟脳など専売品の統制強化を行い貿易や軍制改革を行いましたが、吉田東洋の政策はおこぜ組に似ていたことから新おこぜ組と揶揄されました。それでも成果はあがり、文久元年(1861年)に藩の財政が黒字に転じました。

能茶山山上窯跡
12代藩主山内豊資は、陶磁器の需要拡大から藩の国産事業として文政3年(1820年)に能茶山山上窯を開窯しました。

ジョン万次郎
天保13年(1841年)に漁師仲間4人と漂流して米国捕鯨船に救出され、捕鯨船員として長い重労働を経て11年ぶりに土佐に戻り教授館に出仕しました。

黒鉄門
搦め手(裏側)の防備を固めた門で、鉄板を打ち付けた門扉がある櫓門です。

廊下門
一階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵で、二階は家老や中老の詰所として使われました。
幕末から明治維新
幕末に外国船が来航して全国的に外国船を討つ尊王攘夷運動が盛んになりました。土佐藩では武市半平太が土佐勤王党を結成して、文久2年(1862年)に公武合体を目指す吉田東洋を暗殺して土佐藩の尊王攘夷運動を活発化させました。山内容堂は土佐勤王党を弾圧して武市半平太らに切腹を命じましたが、時代の波に押されて中途半端な姿勢をとり、酔えば勤皇、冷めれば佐幕と揶揄されました。
明治時代の土佐
明治4年(1871年)の廃藩置県で高知県が誕生して同年の廃城令により高知城は廃城となりました。山内容堂は東京で隠居生活して、土佐藩最後の藩主山内豊範は土佐藩知事を経て東京都で生活して鉄道会社や銀行への投資を行うほか、東京と高知に海南学校を設立して人材育成を行いました。

追手門東北矢狭間塀
高知城は明治6年(1873年)に天守などの本丸周辺建造物と追手門を残して城郭建造物がとり払われ、その翌年には高知公園として一般に開放されました。

旧山内家下屋敷長屋
元治元年(1864年)頃に建造された藩主山内容堂の下屋敷に建てられた遺構で、警固番を勤めた足軽の詰所とみられています。
