幕末の動乱と土佐勤労党

幕末において外国船が往来するようになり、国内では鎖国か開国かを巡り論争が巻き起こりました。土佐藩では天皇を尊び外国を排除する尊王攘夷運動を推進すべく土佐勤王党が設立し、山内容堂は幕府を尊重して朝廷との公武合体を進めようとしました。やがて討幕へと突き進む中で、土佐藩郷士の坂本龍馬らが活躍して時代を動かしていきました。
土佐藩の立藩
戦国時代に土佐国を統一した長宗我部元親は、一領具足と呼ばれる半農半士を組織して四国を統一するほどに勢力を広げました。長宗我部元親の跡を継いだ長宗我部盛親は、慶長5年(1600年)に西軍として参加したため改易され、山内一豊に土佐国が与えられました。
上士と下士の差別制度
土佐国の領民は一領具足として有事には武器を取る農民であり、国を守る意識が高くて新たな領主に抵抗を示していました。山内一豊は長宗我部遺臣を激しく弾圧し、山内家の武士を上士、長宗我部遺臣を下士として差別化しました。

浦戸城
国を守るプライドが強い長宗我部の遺臣たちは、新たな領主山内一豊に対して長宗我部氏の居城・浦戸城の明け渡しを拒否して各地で反乱を起こしました。

桂浜
月の名所で白砂が広がる弓なりの海岸線です。土佐藩主となる山内一豊は、旗印を掲げない2隻の船で浦戸城ふもとの桂浜に入りました。
尊王攘夷運動
嘉永元年(1848年)に山内容堂が土佐藩主に就任すると、嘉永6年(1853年)に黒船来航する事件が起きました。米国から開国を迫られた幕府は各藩に意見を求め、土佐藩は吉田東洋を登用して開国を拒否し海防を強化する主旨の意見書を提出しました。これが幕府の目に留まり、土佐藩は幕府で一目置かれる存在となりました。
山内容堂の隠居
13代将軍徳川家定には後継者がいないため、幕府は一橋慶喜を推す一橋派と紀伊藩主徳川慶福を推す南紀派で二分していました。山内容堂は一橋派でしたが、南紀派の井伊直弼が一橋派を弾圧して徳川慶福が将軍に就任すると、山内容堂は藩主を嫡男山内豊範に譲り隠居しました。

浦戸砲台跡
灯明台が置かれましたが、外国船来航を監視するため寛永15年(1638年)に遠見番所が置かれ、文久3年(1863年)に本格的な砲台が置かれました。
武市半平太と土佐勤王党
土佐藩の藩政は開国派の吉田東洋を中心に進められ、幕府が強く主張していた公武合体を土佐の政治にも取り入れました。これに対して武市半平太は、文久元年(1861年)に土佐勤王党の党主として尊王攘夷運動を起こしました。吉田東洋は武市半平太を書生論として退けていたため、文久2年(1862年)に土佐勤王党は吉田東洋を暗殺して土佐藩を勤王化することに成功しました。
武市半平太の最後
武市半平太は藩主山内豊範の上京を成功させ、反対派を粛正して尊王攘夷運動を活発化させました。このときに武市半平太の部下として活躍したのが岡田以蔵で、人斬り以蔵の異名を持つ四大人斬りのひとりで、るろうに剣心のモデルです。安政の大獄の謹慎していた山内容堂は、謹慎を解かれて土佐に戻ると、吉田東洋暗殺に憤慨して土佐勤王党を弾圧して武市半平太に切腹を言い渡しました。

武市半平太旧宅
下士でありながら上士格を持つ家柄に生まれた武市半平太は、天皇を敬い外国を打ち払う尊王攘夷論で藩論を纏め、幕府に攘夷を迫ることを目標としました。

武市半平太の墓
安政の大獄で謹慎していた山内容堂は、謹慎を解かれると土佐勤王党の弾圧を行い、慶応元年(1865年)に武市半平太に切腹を命じました。
坂本龍馬
土佐国の郷士である坂本龍馬は土佐勤王党に加盟していましたが、土佐から脱藩して独自の活動を行うようになりました。佐久間象山や勝海舟から開国に向けた思想を学んだ坂本龍馬は、慶応元年(1865年)にのちに海援隊となる日本最初の商社亀山社中を設立し、薩摩藩などに対して武器の売買などを行いました。坂本龍馬は長州藩の事情に明るく、薩摩藩家老小松帯刀と長州藩との調整を行い、慶応2年(1866年)に圧倒的な軍事力を誇る薩摩藩と倒幕を掲げる長州藩が同盟を結ぶ役割を担いました。
船中八策
慶応3年(1867年)に海援隊が借用していた伊予国大洲藩船いろは丸が、瀬戸内海で紀伊藩の軍艦明光丸と衝突し、いろは丸が沈没する事件が起こりました。坂本龍馬は長崎奉行所に申し立て、紀伊藩から8万3千両もの賠償金を得ました。この年に坂本龍馬は長崎から京都に向かう土佐藩船夕顔丸で、かつて佐久間象山や勝海舟らが唱えていた大政奉還などの考えを示した船中八策を提唱したと言われます。

坂本龍馬
薩長を結び付けて倒幕を進めましたが、大政奉還が行われた翌月に中岡慎太郎とともに近江屋で襲撃され、坂本龍馬は斬殺され中岡慎太郎は後日亡くなりました。
大政奉還
板垣退助は薩摩藩西郷隆盛と薩度密約と呼ばれる倒幕を約束し、佐幕派の山内容堂を説き伏せて幕府と戦う決意を固めさせます。一方で、吉田東洋の甥にあたる参政の後藤象二郎は坂本龍馬から船中八策を聞き、薩摩藩と大政奉還を実現する薩土盟約を締結しました。後藤象二郎は山内容堂に大政奉還を進言し、山内容堂は徳川慶喜に対して大政奉還の建白書を提出しました。
小御所会議
徳川幕府は大政奉還を受け入れることとし、慶応3年(1867年)に政権を朝廷に返上しました。新しい体制を構築するため小御所会議が開かれますが、山内容堂は元将軍徳川慶喜が呼ばれていないことに怒りを露わにしますが、休憩中に西郷隆盛が短刀一本あれば片付くとこぼしたことで態度を変え、徳川慶喜出席の主張を取り下げました。
戊辰戦争から日本の近代化
山内容堂は福井藩主松平春嶽、宇和島藩主伊達宗城、薩摩藩主島津斉彬とともに幕末四賢候と称されました。後藤象二郎は地下浪人の岩崎彌太郎を抜擢して主任に登用し殖産興業を創業させています。

板垣退助
慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いが起こり山内容堂は旧幕府との戦いに消極的でしたが、土佐勤王党や板垣退助は山内容堂を無視し各地で転戦しました。

岩崎彌太郎
岩崎彌太郎は坂本龍馬とも親交があり、明治4年(1872年)に三菱商会を設立して日本一の海運会社に成長させて日本の近代化に大きく貢献しました。